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妻よ薔薇のやうに

監督 成瀬巳喜男 1935年

妻よ薔薇のやうに 1935年当時の現代劇。物語の本筋はちょっと悲しい話でもあるが、君子のキャラクターをはじめ楽しい要素も多い。登場人物は皆、理性的に振る舞い、描写は心理に深入りしない。カットはリズミカルで、あくまで軽く、深刻にならずに楽しめる。

 現代の観客が見ると1935年の同時代的描写が最初に気づくこの映画の魅力だ。当時の都会や農村の様子が見られる。普段見られないものが見られるというのは原始的だが立派に映画の魅力だ。義太夫や和歌、ギターが一般人の趣味として登場し、和歌は「インスピレーション」から生まれ、「ビリヤード」もタクシーもある。日常的に和服を着るのも珍しくなく、着物は高価ではあるかもしれないが、現代よりは買いやすそうだ。

 その中に存在する登場人物たちも楽しい。主人公の君子は明るく活発な女性でしっかり者だ。45円の月給を稼ぎ、いい奥さんになる自信も満々だ。タクシーの止め方が面白い。
 恋人の清二は善良でおっとりした性格だ。和歌は率直な気持ちを表現するのがいいと言われると腹が減ってるという気持ちを率直に表現しようとしたり、花を見ても食べられるかどうかという発想をするような男だ。彼女と意見が対立すると常に負けている。
 この2人のやり取りも楽しい。将来どんな夫婦になるか想像がついてしまいそうだ。
 叔父の役で藤原釜足が出ているが、後年のとぼけた印象と違ってこの映画に登場する男性陣の中では一番しっかりしている。が、大真面目な義太夫が可笑しい。
 君子の両親は終盤の2人のやり取りを見ていると絶望的に相性が悪そうだ。当事者の2人にとっては悲劇だし、観客から見ると申し訳ないが可笑しくて笑ってしまう。

 編集は流麗で気持ちよく見ていられる映画だが、ぎこちなさを感じさせる部分もある。
 君子が父の俊作と2人で歩きながら家に帰るように説得する場面では、対話の流れに合わせて目まぐるしく立ち位置を変えてその攻防が描かれる。地味にクライマックスのような演出だが、確かに物語の上ではそうかもしれない。父を取り戻そうとする物語は予期しないお雪の善良さに直面し、ここで君子はすでに敗北してしまうのだから。この場面は方向性が曖昧だったり、多少ぎこちないカットの繋ぎもあって特徴的だ。
 終盤で俊作が長野に戻ろうとする場面が映画の構成上のクライマックスということになるが、ここでも屋内シーンなのに唐突に夫婦間の距離を強調するように屋外からその様子を捉えたカットが挿入される。急速なパンも伴っていて、誰かが外から彼らのやり取りを注視している主観カットのように見える。それは我々観客なのだろうか? 不自然さによって注意を喚起されるシーンだ。

 家族で街を出歩くシーンでは、母の悦子がタクシーに乗ろうと言うと俊作は歩こうと言い、君子が機転を利かせて俊作をその気にさせると、今度は悦子が気に入らない。悦子が不機嫌そうに「歩きましょう」と言うと次のカットでは3人揃ってタクシーに乗っている。描く内容は気まずいのに編集は逆説的で楽しい。

妻よ薔薇のやうに 夫婦が互いに礼儀正しく挨拶を交わすのも行き過ぎていて滑稽だが、君子の「見ようによっちゃ悲劇だわ」という言葉ですぐ相対化される。ラストでも両親の別れを彼女は「お母さんの負けね」と評する。君子の台詞がなければそれぞれもっと滑稽に、もっと悲しくなるはずだが、君子の視点から描かれることでこの映画は喜劇からも悲劇からも逃れている。

 物語の構造上のクライマックスが中盤の中途半端な所に置かれていたり、悲劇も喜劇も中和されていたり、物語というものは作為的でしかありえないものだが、この映画は作為的な物語性を希薄にしてキャラクターと編集の魅力で最後まで軽快に見せきってしまう。

 この作品をはじめ、日本映画の名作には、豊かな教養と確かな見識によって支えられた技術によって、しかしそれを隠して日常を軽いタッチで描くという作品が多い。伝統的な日本映画としては成瀬や小津が主流で、黒澤や溝口がどちらかというと例外的な存在なのだろう。

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