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サクリファイス

監督 アンドレイ・タルコフスキー 1986年 スウェーデン映画

サクリファイス この映画はキリスト教的な世界観、表象、物語…つまり何もかもがキリスト教的だが、キリスト教礼賛ではない。人類が持っている宗教的な心情、信仰や迷信への心的傾向がこの映画においてはキリスト教に像を結んでいるということだ。テンポの遅ささえ気にしなければ誰もが楽しめる。描写も物語も独創的でとても面白い。特にタルコフスキーの映画としては偏りがちだった描写が抑制され、物語やダイアローグの比重が増してバランスがいい。主人公が日本かぶれなのも楽しい。自称日本人の生まれ変わりで趣味は尺八を聞くことだ。

 音と振動だけの最終戦争、焼け落ちる家の描写など、映像や音響はいつもながら魅力的だ。魚のように口のきけない子供とダビンチの「東方の三博士の礼拝」、記号表現としての言葉や地図、役者の身体など、やや直接的だが細部の暗喩的な描写もいい。

 そしてこの映画では人物表現がいい。
 冒頭主人公のアレクサンデルは枯れかかった木に3年間水をやり続け蘇らせた修道僧の話をするが、郵便屋に聞かれると神は実在しないと答える。そうかと思うと小さな息子相手に文明批判をしたり、核戦争によって文明が滅びると神に祈りだす。彼は矛盾した男だ。ここまでなら単にキリスト教に大きな影響を受けているが故にアンビバレントな感情を抱いた変わり者というだけかもしれない。冒頭でニーチェにも言及されている。しかし彼はそれにとどまらない。神秘主義者の郵便屋に、召使のマリアは魔女であり彼女と寝れば救われると聞かされるとそれを実行する。狂っていて実に魅力的な人物だ。
 郵便屋もいい。彼はニーチェに傾倒していて、生まれ変わっても何も変わらないと言う。また、アレクサンデルが17世紀の地図を見て「真実と違う」と言うと「どの真実と?」と問い返す。彼は事実と異なる地図を信じた17世紀の人々を、しかし幸せだったと語る。気が狂わんばかりに切実に真理を求めているアレクサンデルと対をなしていて、キリスト教の直線的な時間観に対し円環的な時間観を語り、真理という概念を相対的に捉え、虚構の生きていた時代を幸せだと思っている。映画自体がキリスト教的価値観に覆われている中、彼はそのアンチテーゼだ。しかし面白いことに実は彼もまともではない。彼は奇跡の蒐集家であり、マリアは魔女でありアレクサンデルが彼女と寝ることで世界が救われると言い出す。
 アレクサンデルはマリアと寝ることで世界を救ったのか? 単なる狂人の妄想だったのか? 郵便屋が言う通り「真実なんてものはない」のかもしれない。

サクリファイス 物語と描写のバランスに見られるスタイルの変化など、タルコフスキー作品の通時的な発展も興味深い。ストーカー以降描いてきた狂気は徐々に昂進し、ついに主人公自身によって体現されるまでになっている。これまで示唆されるだけだった人類の滅びも正面から描かれる。
 この映画ではストーリーも劇的で、ひとつの家の中で唐突に体験する核戦争には観客もびっくりだ。キリスト教とニーチェ、現実と虚構、アレクサンデルは「はじめに言葉ありき」といいつつ言葉を嫌い、戦争が起こると「この時を待っていた」と言いながら神に救いを求める等々、様々な矛盾と対立が相克していて、最終的に主人公が明白な狂気を呈することで、それまでの展開の真実性が揺らいでくるとその対立しあう個々の要素の意味も揺動する。その決定されない意味作用がこの映画の最も大きな魅力だ。

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