FC2ブログ

記事一覧

HOME

『戦艦ポチョムキン』群衆シーンと「オデッサの階段」

監督 セルゲイ・エイゼンシュテイン 1925年 ソビエト映画

 モンタージュ理論の実践とその成果によって映画史に確固とした地位を占める映画。エイゼンシュテインの編集はショットとショットの繋がりに個々のショットにはない新たな意味を生み出そうとするもので、リアリティを醸成するグリフィスの編集とは好対照となっている。いずれの手法も映画にとって画期的なもので、今日のほぼ全ての映画が編集の面で彼らの成果の上に建っていると言っていいだろう。

『戦艦ポチョムキン』虐殺前の喜び溢れる人々の描写
『戦艦ポチョムキン』事後の悲惨な描写

 ただ、どんな分野でもそうだが、その発明の偉大さは今日の人間には実感できない。現代では電気のある生活が当たり前のものであるように、『戦艦ポチョムキン』の編集も特に注意を惹くものではないだろう。「オデッサの階段」を含む幾つかのシーン以外は…。逆に言えば、今もって観客を凝視させ、緊張感を漲らせる「オデッサの階段」はその編集も含め、いかに見事な映画であるか、ということだ。そしてその映画としての魅力は決してモンタージュ理論だけが優れていたからでもない。編集とともに、シナリオによってそのシーンに与えられている意味、大量の登場人物たちの個々が備える強烈な実在感、人間や長い階段など被写体の造形、その他全ての優れた表現が結実しているからこそだ。

 作品そのものの出来はあまりよくない。いきなりレーニンの引用で始まるストレートなプロパガンダ映画で、冒頭では字幕が観客の感情を一定の方向に揃えていくし、シナリオは史実を元にしつつ扇情的なフィクションに書き換えられている。
『戦艦ポチョムキン』政府軍の人々から個性を奪い物象化する描写 序盤で蛆虫の湧いた肉を食わされる水兵が「日本のロシア人捕虜の方がもっといい食べ物を与えられているぞ!」と言って怒る。ポチョムキンの叛乱は日露戦争中の1905年6月、日本海海戦でのバルチック艦隊の壊滅から1ヶ月も経っていない頃の出来事だ。上官が食事を拒否した者を銃殺しようとして叛乱が起こる。叛乱は成功するがそれを呼びかけた水兵は射殺される。

 政府軍は悪意ある権力者と冷酷で無個性な集団として描かれ、武器を持たない市民に銃を向け、子供や女性を容赦なく撃ち殺していく。逆に彼らが攻撃される場合は破壊される建物だけが描写され、人間の被害は描かれない。ポチョムキンはそんな軍の本部を砲撃し、愛らしい子供や婦人、傷ついた人など、個性を持った人間の集まりである民衆から愛され、他の艦船の大勢の水兵からは帽子を振って応援される。絵に描いたようなプロパガンダ映画だ。

 『戦艦ポチョムキン』はこの内容で、しかし ”それでも価値のある映画だ" と観客に言わせるだけの力を持っている。圧倒的な迫力の群衆シーン、中でも「オデッサの階段」があるからだ。当時の街や当時の人々、その顔や服装などに宿る本物のリアリティも今日では再現不可能だろう。

『戦艦ポチョムキン』膨大な物量と奥行きのある構図で形成された群衆シーン

 オデッサの階段での虐殺シーンでは、長く特徴的な階段が奥行きを作り出し、無数の人々が、それも当時、本当にそこで生活していたとしか思えない佇まいを持った人々がその階段を埋め尽くしている。ドキュメンターに等しいリアルさとすさまじい物量だ。そして演出は彼らを無個性な集団としては描かない。彼らはポチョムキン号の悲劇に共感し援助してくれている人々であり、それぞれが個性を有している。黒い帽子を被った眼鏡の女性が微笑み、白い服の女性は日傘を差し笑顔で手を振る。足のない青年が帽子を振り、ある母子は眩しそうに旗を見上げる。シナリオの展開と丁寧な描写が、彼らを人格を持った愛すべき人々の集まりにしている。

『戦艦ポチョムキン』対照描写で強調される架空の虐殺シーン そこに惨劇が起こり、笑顔だった人々は阿鼻叫喚に陥る。観客の感情の自然な誘導、突然の状況変化とその対照描写など、実に巧い。手前に逃げてくる白い服の女性の日傘で画面が一杯になり、眩しそうに旗を見上げていた子は撃たれて傷つき、パニックになった群衆に何度も踏まれる。母親は無慈悲に撃ち殺され、黒い帽子の女性は顔を容赦なく打たれて血塗れだ。
 無抵抗な人々を撃ち殺していく兵士たちは民衆の描写とは一転して、無慈悲で個性を持たない集団として描出される。彼らは観客の感情移入を拒むように顔を見せず、一列に並び、機械的にただ発砲していく物理的な存在だ。
 映画がプロパガンダに利用されるのは悲しいことだが、それにしても見事な描写だ。もちろん乳母車が階段を落ちていく有名な場面も含めて。

 モンタージュ理論がこの場面の演出に大きく貢献している。それは説明的なショットを不要に、必要な表現を簡潔にし、あらゆるショットの意味が対立、葛藤して映画史上稀に見る充実した6分間を作り出している。

 ただ、エイゼンシュテインは少し自分の理論に忠実過ぎたのかもしれない。編集によってリアリティを手放している面があり、彼のモンタージュ理論の弱点も少し露呈している。
 撃たれる人と撃つ人、歩いてくる兵士とその兵士に向かって歩いていく人など、両者を同一ショット内に収めた方が明らかに効果的な場合でもカットを割っているところがある。特撮ヒーローの超人的なジャンプを、ジャンプ、空中、着地と3カットにするようなものだ。勿論そんな超人的な能力は人間にはないのでトリックを使わない限り、カットを割るしかないのだが、しかし、この場合はそうではなかったはずだ。他にも直前のカットでアップで写っていた人物が次の引きのカットの中に存在していなかったり、別撮りのショットを繋ぐことで映画の時間を損ねていたりする。

 しかし、今もって優れて魅力的な映画だ。その魅力は作品全体としての内容や完成度ではなく、場面の充実度、達成度に因る。

このエントリーをはてなブックマークに追加
コメント

拍手とコメント、両方して下さる方はお手数ですが、コメントは下のコメント欄にご記入下さい。拍手ボタンを押した後に出てくる「拍手コメント」に書き込んでも通常ページには表示されない仕様になっているようです。                       ⋮

コメントの投稿
非公開コメント

年代別

ジャンル別

プロフィール

ぱこぺら

Author:ぱこぺら
批評なので基本的にネタバレです。できるだけ下記の方針で書きます

・作品外の周辺情報を考慮せず作品内の表現に基づいて評価する
・歴史的な読み、評価から離れて現在の視点から論じる

リンク

撮影監督の映画批評

無意識の感情移入など専門的な視点から語られる映画評。個性的。

 

映画中毒者の映画の歴史

創成期の映画史と当時の作品の解説。貴重な情報が多数。


このブログをリンクに追加する