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『残菊物語』卓越した描写と偶有性

監督 溝口健二 1939年

『残菊物語』菊之助とお徳の馴れ初めは右向きの移動撮影、追い出されたお徳は左向きのパン
  二人の馴れ初めは右向きの移動撮影、追い出された
  お徳は左向きのパンで去っていく。
 シーン内での時間・空間の連続性の維持が徹底されていて、その完成度が異常に高い。『浪華悲歌』の頃、要所要所で使われて効果を発揮していた ”場” の演出がほぼ全編に拡大され、緊張感を漲らせている。その張り詰めた空気は観客にも伝わってくるほどで、撮影時の演者とスタッフの緊張はとんでもないものだったろう。皆、二度とやりたくないと思ったかもしれないが、以降これが溝口定番の手法になる。当事者たちには悲劇だが、想像すると申し訳ないがちょっと笑ってしまう。

 視点/カメラは人物をアップで捉えることなく、常に人物を含めた ”場” を描き続ける。

 菊之助とお徳の馴れ初めは夜道を歩く二人を堀の下から捉えた印象的な移動撮影で描出される。背後には明治時代の家々が見上げられ、彼らは互いに時に離れ、追いつき、立ち止まり、追い越し、通行人とすれ違い、歩いていく。
 その後、暇を出されたお徳が去っていく場面では、同じ視点から逆方向のパンで捉えられ、彼女が立ち止まり振り返り見る歌舞伎座が背後に見える。

 菊之助が入谷や名古屋駅でお徳を探す二つの場面では、歩く菊之助につけて移動するフレームに様々な人々が現れては消えていく。前者では前景に建物で働いている男たち、後景に何か魚を燻しているらしい女性や遊んでいたり駆けていく子供たち。後者では手前で座席についた人々がそれぞれにキセルをふかし、弁当を食べ、本を読んでいて、怪訝そうに菊之助を見る。その背後では見送りだろうか、改札の向こう側からこちらを見ている人、ホームで何かを運んでいる人など、多彩な人々が実に自然に存在している。描写の密度は圧倒的だ。

 また、菊五郎たちのいる部屋の様子を見せていたカメラがそのまま横に振られ、カットを割ることなく隣室の菊之助たちを描写する。
『残菊物語』一つのショットで描写される二つの部屋
  一つのショットで描写される二つの部屋
 
『残菊物語』フレーム外で起こる菊之助の出奔とその先に広がっている空間
  フレーム外で起こる菊之助の出奔とその先に
  広がっている外の空間
 菊之助が出ていく場面では菊之助がフレームアウトしてもカメラは奥の部屋で困惑する人々を映し続け、彼の出奔がフレーム外の音声によって表現される。奥の二人が出てくるのに合わせてやっとパンすると、開け放たれた障子戸とその向こうに外の暗闇が見える。菊之助はその暗闇の中に出ていったのだろう……。

 物語の流れが堅実に表現されているその奥で、時間はシーンの中で途切れることなく流れ続け、空間はフレーム外にどこまでも広がっている…。 ”場” の演出による描写の密度とそこから醸成されるリアリティは極限に達していると言っていいだろう。作品世界と登場人物の実在に疑いの余地は全くなく、息苦しくなってくる程の緊迫感だ。

 編集においては、クライマックスでは舞台で演ずる菊之助とその裏で心配するお徳がカットバックでスリリングに描出され、ラストでは臨場感溢れる道頓堀の船乗り込みと沈痛な病床のお徳がクロスカッティングによって鮮やかに対照し合う。

 『残菊物語』はこれらの卓越した表現だけですでに十分特筆されるべき作品なのだが、さらに我々を驚かすのは、その構成要素の偶有性だ。
 一見通俗的なメロドラマを題材にしつつ、その中に歌舞伎という特殊な発展を遂げた日本特有の演劇を延々と10分近くも描写し、特殊な社会である梨園の掟に阻まれる恋愛を語り、明治という時代そのものと、当時の風景、道頓堀の船乗り込みなど、すべての要素が特殊で固有な日本文化で占められている。
 映画の一般的な観客にとってはおそらく意味が解せないことも多く、演技の巧拙も判断できないであろう特殊な演劇である歌舞伎、普遍的であるより独自の文化・伝統である船乗り込み。それら偶有的な要素に物語上の重要な意味を担わせ、編集がそれを更に際立たせて、その強靭な表現は観客に否応なく日本固有の文化を凝視させる。
 また、近世の残り香漂う近代初期という非常に捉えづらそうな時代の雰囲気を見事に掴んでいるのは信じがたいほどだ。普遍性より特殊な要素の数々にこそ執着し、それらを意義深く、魅力ある映画表現に昇華してしまう溝口の特異な才能が余すことなく発揮されている。
 溝口健二は早すぎる実存主義者と呼ばれるべきだ。もしかしたら今もって評価が彼に追いついていないかもしれない。

『残菊物語』お徳の死に対置される道頓堀の華やかな船乗り込み
  お徳の死に対置される道頓堀の華やかな船乗り込み
 ただ一つだけ、映画全体の編集に冗長さがあるのは少し残念な点だろうか。あまりにも全てのシーンが充実しているために却って時間の緩急がなくなってしまっている。おそらく描写の美しさより、物語の面白さを求める観客に対しては非常に単調な映画にもなりうるだろう。この点では時折現れる充実した描写がアクセントとなってメリハリを生み出していた『浪華悲歌』や『祇園の姉妹』の頃より後退している。場面の繋ぎにもあまり配慮が見られず、編集はやはり単調というしかない。一部は失われた3分間のためだろうが、多くの場合は芸のないオーバーラップの多用のせいだ。時間の飛躍が描写されることなく字幕によって説明されてしまうのを見ても、溝口の編集と時間に対する関心はシーン内に留まって、残念なことに映画全体には及んでいないようだ。

 『残菊物語』は編集面で僅かな弱点を持ちつつも、この上なく充実したシーンの集積で構成され、世界中の他のどんな映画にも稀な偶有性の魅力を獲得した孤高の傑作だ。

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