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『金田一耕助の冒険』全編に溢れる虚構性

監督 大林宣彦 1979年

作品内に存在する横溝正史・作『金田一耕助の冒険』 日本で『月世界旅行』が公開されてから74年が過ぎた頃『金田一耕助の冒険』は公開された。しかし、残念なことに1979年の人々は映画の虚構としての面白さを忘れてしまっていて、この映画はとても不評だったようだ。キネマ旬報のベストテンでは批評家からは無視されてなんと得票0、観客選出でも25位と低迷している。
 当時はリアリズム以外は認めないとするような考え方が大勢を占めていたのだろうか? そういえば、1979年は丁度、ドナルド・リチーが ”日本の観客は真面目で、ファンタジーの類には拒否反応を示す” と書いた年でもある。確かにそういった傾向もこの映画が支持されなかった理由の一つかもしれない。シリアスで暗く土俗的な雰囲気が魅力の横溝正史をパロディにしたのもいけなかったのだろう。また『HOUSE/ハウス』のようにアイドル女優が大挙出演してお色気シーンを見せてくれるという訳でもなく、おっかなびっくりのホラーでもない。こう考えるとこの映画は、当時評価されるはずがなかったのだ、とも思えてくる。
 その後、一向にこの映画が再評価される気配のないことからすると今もって状況は変わっていないのかもしれない。だとしたら、映画は真面目に、真剣にだけでなく、もっと気楽に、もっと不真面目に楽しむこともできるのだということを、現代の観客である我々がこの映画から学ぼうではないか。そうすれば映画という媒体もきっと忘れていた虚構の魅力を思い出してくれるし、この優れた映画の評価も高まり、観客にとって映画はもっと楽しく、もっと面白いものになる。

描写は物語上の機能など無視して映像の美しさを追求する
描写は物語上の役割よりも映像の美しさを追求する

美しく幻想的な描写の数々
美しく幻想的な場面の数々

雰囲気たっぷりの叙情的な昭和の風景
叙情的な昭和の風景

 
 『金田一耕助の冒険』は映画の虚構としての美しさに満ち満ちている。その露わな虚構性は誕生間もない頃の映画たちがごく自然に備えていたはずのものだが、映画の発展とともにそれは徐々にリアリズムの影に隠れて力を発揮する方向で洗練されていき、いつしか忘れ去られ、稀にひょっこりと顔を出しては我々を驚かせたり、場合によっては興醒めさせる、という程度の存在に成り下がっていた。我々観客も虚構を語るための手段であったはずのリアリズムをすっかり目的と勘違いしていたのだ。この映画はその宝物を再び映画の表層に取り戻そうとする営為であり、ここでは剥き出しの虚構性こそが輝きを放つ。

作り物であることを隠そうともしない剥き出しの虚構性 機関車の画から始まるのは勿論、『ラ・シオタ駅への列車の到着』以来、機関車が映画において最も魅力ある被写体の一つだからだろう。この場面が物語に必要かと言えばそうではないが、映画には必要だ。映像こそ映画の最も重要な魅力の一つなのだから。列車内においても車掌が奥の扉を開けるとそこにはちゃんと着物姿の男が腰掛けて何かを食べていて、観客を視覚的に楽しませることを決して忘れない。
 到着すると踏切を通過する列車越しに金田一耕助を捉え、その背後に海を見せる。これも勿論、物語にとってこの場所である必要はないが、この魅力ある画を撮るために映画がこの場所を必要としたのだ。映画が見るものであることを作品自身が明確に自覚してくれている。極めて優れた映画ではないか。

 そして、このたった二つの場面だけで金田一は終戦直後の列車内から1979年の東京にタイム・スリップし、虚構の中から現実の世界に飛び出してしまってもいる。更にタイムスリップの合間には和田誠デザインのアニメキャラになって動き回り、続く写真撮影の場では女性ディレクターがシャッターを押した途端、映画のマジックが発動し、等々力警部とともにビルの屋上に瞬間移動する、という目まぐるしさだ。虚構性を顕わにした描写が矢継ぎ早に畳み掛けられて、リアリティの水準はジェットコースターのように振り回され、虚構と現実、実写とアニメの境界は壊れ、映画は時間と空間を自在に飛び越えている。10分に満たない冒頭部分ですでに自然主義的リアリティを破壊し尽くし、マンガのように極めて抽象度の高い作品世界を創造してしまっている。非常に稀な手法であり、しかも映画で、それも ”音と色を獲得して以降の実写映画” という極めて現実的な表現媒体でこれを成し遂げていることは、特筆すべき成果だ。映画から虚構としての魅力をここまで存分に引き出す大林の技量は比類なく、誰にも真似のできない域にある。宝石のように貴重な才能だ。
虚構内の虚構としてリアリティを撹乱する看板たち
虚構内にある虚構の表現がリアリティの水準を撹乱する

 
 現実世界に飛び出してきた名探偵は自ら殺人事件を求め、等々力に「乗務員が6名死にました」と聞かされるとナイフを握りしめて「じゃあ、まだまだ死ねますねえ」とニンマリ笑う。ミステリー小説の主人公であるためには殺人事件が必要なのだろう。なかなか大変な商売だ。最後にはついに自分自身で殺人事件を起こしてしまう程に……。

 作品世界は滅茶苦茶で、横溝正史の短編小説集『金田一耕助の冒険』が存在する世界に、その中で活躍した金田一耕助がなぜか往時の姿のまま実在し、未解決に終わった「瞳の中の女」を解決するように迫られる。その小説内の事件は創作であると同時に過去の事実でもあるらしい。
 美術館では火の鳥が飛び、ゴジラが考えているし、インスタントコーヒー「マキシム」の巨大な瓶に向かって斉藤とも子をお姫様抱っこした金田一がレッドカーペットの上を歩いていく。明智小十郎は一人、場違い───というより作品違い───な時代劇調の演技をし、背景音楽までそれに倣って拍子木を打ち鳴らす。かと思うと突然、カタカナ英語で「ビューティフル・フォー・ヒューマン・ライフ!」と叫んで急速にカメラに迫ってくるではないか。吉田日出子演じる彼の妻、文江によると明智夫妻の住まいは東京タワーより大きな「スーパーマンション」であるらしい。多分この世界では事実そうなのだろう。すごい建築技術だ。
魅力あふれる虚構の世界
魅力あふれる虚構の世界

 
 美術館?の外観はコロコロ変わり、警察署は常識的に考える限り常に同じ場所にあるはずだが、この世界は時空が歪んでいるのか、外の風景がいつも異なっている。まるで夢の中にいるようだ。実際、この映画の作品世界は現実より、夢に近い。世界そのものが矛盾を内包しているのだから。もし、この映画がバカバカしくてついていけないという人がいたら、この映画は夢を描いたものだと解釈してみてはどうだろう。不可解な世界とそれをまったく意に介さず展開していくストーリーなど、夢の不条理さを実にリアルに写し取った興味深い映画に見えてこないだろうか? 束の間、現実を離れて見る楽しく幸福な夢………これこそ我々が映画と呼んでいる当のもの、そのものではないか。
壊されていく警察署と映される度に変化する屋外の風景
壊されていく警察署と映される度に変化する屋外の風景

 
 登場する人々も実に面白い。志穂美悦子がR2-D2を真似して赤ちゃん言葉のように「ピポパポ」と喋り、三船敏郎は薄くなった頭髪をイジられ、樹木希林が植木鋏をバシバシ開閉させながら不気味に近寄ってくる。他にも、片岡千恵蔵の金田一耕助が映写されたり、三橋達也、岡田茉莉子、峰岸徹、坂上二郎などが続々と登場し、彫刻の不二子像の顔はどう見ても昭和の歌姫、山口百恵だ。おまけに団地住まいの冴えない亭主はなんと角川春樹で、下着に腹巻き姿だし、終盤ではついに原作者の横溝正史まで登場してこう言う。「こんな映画にだけは出たくなかった」。これほど豪華なオールスター映画はないし、これほどバカバカしくも痛快なコメディ映画もないだろう。まさに夢の映画だ。
片岡千恵蔵、志穂美悦子、三橋達也、三船敏郎などのスターが大挙して出演するオールスター映画
片岡千恵蔵、志穂美悦子、三橋達也、三船敏郎などのスターが大挙して出演するオールスター映画

 
 最後に金田一耕助は金田一シリーズの舞台である日本について、推理小説の主人公であることについて自分の率直な気持ちを告白する。作中では決して語ることが許されなかった真情だ。誰に対して?───手前にいるカメラマンやディレクターか? いや、もちろん我々、観客にだ。虚構から作品内の現実世界に抜け出てきた存在が、今、その全体を虚構として享受している我々に語りかけているのだ。
 彼の問い掛けには儚い真実があり、作られた人格を持ち、荒唐無稽な世界に生きる全ての虚構の登場人物の悲しみを滲ませている…。そしてカメラのシャッターが切られると同時に金田一は消失し、場面は唐突に切り替わる。なぜか砂浜に彼がいる。映画のマジカルな力がまた発動したらしい。彼は今まさに殺人事件を、自らの存在意義を創造しようとしているところだ。小説内で遺体がいつもそうであるように被害者をノコギリでバラバラにして釣り鐘や日本刀で飾り付けている。その虚構の舞台裏を晒した鬼気迫る行動は可笑しくて、同時に深い悲しみに満ちている………。
 カメラに──つまり観客に向かって語りかける金田一耕助彼ら虚構の人々は物語上の役割によってのみ存在意義を保っている儚い存在だ。しかし我々が共感し感情移入するだけの真実をその裡に宿した生きた人々でもある。おかしくて悲しいその姿はどこかしら現実の我々とも似ていないだろうか? 等々力警部もまた、自身の悲しみはどうあれ、与えられた役割に従って彼を撃つほかないのだろう。彼に拳銃を向け、引き金に指をかける…と、その光景はまた一瞬の白昼夢のように消え去り、視点は撮影現場に戻ってくる。混沌とした現場をそのままに消失した金田一はアニメキャラクターとなって去っていく。そう言えばすでに白昼夢の中で別れの挨拶を済ませていたではないか。きっと彼はまた虚構の世界に帰っていったのだ………。

 『金田一耕助の冒険』は映画の虚構としての魅力を全編に渡って輝かせた一つの金字塔だ。大林宣彦はおそらく映画の虚構性を誰よりも愛している。そして、それによって誰よりも観客を喜ばせ、楽しませてくれるという意味で、ジョルジュ・メリエス以来のもっとも偉大な映画監督だ。

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