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『影武者』 (2) 詳細解説と分析

監督 黒澤明 1980年

詳説1 撮影と視点



 『影武者』ではカメラの冷淡さが特に際立っているが、それはファーストシーンからすでに異様だ。人物から遠い位置にカメラを固定したまま6分以上の1カットのみで構成されている。同じ男が3人いて1人だけ影が映っているのが信玄だ。残り2人は弟の信廉と名もない盗人、それぞれ影武者と影武者候補だ。実体と影というモチーフを端的に映像で語っているのがいい。対話ののち、信玄が出ていくと盗人は思わず平伏す。信玄の人物に何らかの感銘を受けていて、この時すでに男の心に影武者の役を引き受ける動機が準備されているようだ。ここでフエードアウトして、映画のタイトル『影武者』が浮かび上がる。

 シナリオはここで信玄の存在感、盗人の小泥棒としての卑小さ、そして作劇上もっとも重要な主人公の動機を描いている。そしてよく見るとそれらは演じられてもいる。信玄の偉大さ、信廉の怒気、小泥棒の野卑さ、虚勢、そして彼の心に与えた信玄の大きな印象…。これらの要素は皆、彼らの表情や動作によってのみ表現され、カメラは一切関与しない。その結果、映画としてはこれらはほとんど描かれていないと言っていいほどの微妙な表現になっている。意味の連関を紡いでいく脚本をカメラが撮影によって無効にしているのである。映画におけるカメラワークの効果の大きさにあらためて気づかされる。3人のやりとりを見守る我々観客の視点は、部屋全体が見渡せるような遠い位置に固定され、対象をもっと近寄って確かめたいと思っても、その三人の心中にどんな感情の変化や葛藤が表れても微動だにしない。眼前で物語上、非常に重要な出来事が起こっているにも関わらず、観客の視点は作品の内容から遠く離れ、ただ淡々と静謐にそれらを眺めるのみである。こうして撮影が物語を平板に感じさせ、登場するすべての人聞から生命感を奪っている。こういった撮影は映画の最後まで徹底されていて、作品に独特の冷たさと客観性を与えている。

『影武者』 暗く緑色の屋内シーン 緑色はここから徐々に死を象徴する色となっていく 人物や物語を表現しようとする脚本とそれを無効にしようとする撮影とのこの矛盾した関係は複雑で興味深い魅力を生み出している。
 脚本は意義や価値といった人間的な意味を語っていて、撮影は意義や価値を削ぎ落とした客観的な世界を見せたがっているのだが、この対立は武田と織田・徳川の対立の相似形となっている。
 武田側は例えば城攻めの際、相手の心理でその城が落ちるかどうかを推測する。「今宵、水の手を絶たれても、果たして笛を吹かせるかな?」 笛の音が聞こえれば「人心に揺ぎなく」落城はまだだろう。笛の音が聞こえなければ「常心なく」すぐに落城するだろう、と話し合う。勝頼を援護するために出陣を決意する際も、山県と信廉はこう語り合う。「勝頼殿の後ろにお屋形様あり、と装うほかあるまい」「左様、孫子の旗を見れば、家康は動くまい」 いずれの場合も武田家の人々は、人間の心理に基づいて判断している。そもそもの彼らの目的が3年間人々を欺き続けることであり、彼らは人の心を主戦場に戦っている。
 それに対して織田・徳川側は対照的だ。家康は信玄狙撃の真偽を状況再現による実験によって判断しようとするし、信長は「我ら二人とも信玄が死んでくれれば、大いに助かる。だから死んで欲しい。いや、死んだと思いたい。それだけのことかも知れぬ」と自分の心理を相対化して闊達に笑う。
『影武者』 織田信長が闊達に笑う明るい場面 この人間的、主観的な武田側と物理的で客観的な織田・徳川側の対立はそのまま物語/脚本と視点/撮影の対立としてせめぎ合い、表現と内容が一体化して流動していく。
 また更に描写の上で重要な場面の多くが、間接的に描かれ、または省略されることによって、観客は事実が直接確認できない位置に立たされることから、実在と影、真と偽などの葛藤がそこに重なってくる。武田と偽・虚構・物語、織田はそれらと相反する真・現実・物理的因果律などがそれぞれ緩やかに連関し合いながら様々なレベルで互いに相克する。その複雑で豊饒な意味作用は意識されるかどうかの微妙なレベルで揺れ動いている。映画表現の一つの頂点だろう。

 そして武田側は暗い屋内か、屋外であればほとんどの場合夜か曇天下で描かれる。彼らは常に思い悩んでいて、その目的も元々人を騙すというネガティブなものだ。それらのシーンは重苦しく長い。それに対して信長側は多くの場合、晴天下に広く開けた空間で描かれ、家康がワインをむせたり、刀を忘れたりといったユーモアもあり明るく楽しい。彼らの目的も真実を明らかにするというポジティブなものだ。信長にはアップも多用され、それらのシーンはあくまで軽く心地いい。
 観客が感情移入するとしたら明らかに信長だろう。敵側が英雄で主人公側が悪役のような逆転した描写だ。
 最終的な決戦の場も明らかに信長が、脚本・撮影の対比で言うなら撮影が支配している。戦いは信長を象徴するような晴天下の広大な空間で行われ、その方向性も左から右に攻めるのは信長側だ。最後に真実が明らかになることによって人間的な意味と価値の体系としての世界が無意味で客観的な世界に完全に敗北する。全ての要素を統べて言うなら、あらゆる意義の虚無に対する敗北だ。

『影武者』 武田側の暗い屋内シーン また、このカメラワークの副次的な効果として『影武者』は細部の表現が非常に面白い。撮影の印象から観客には特に重要なことは何も描かれていないように見えるシーンが多い。しかしよくよく見てみるとそこには目立たない形で様々な表現が隠されていたりする。ファーストシーンの影の扱いや3人の演技もそうだが、他にも家康が信長の陣中に自分の刀を忘れて出てくる茶目っ気を見せていたり、影武者が初めて全軍の前に姿を表すとき、雲が日差しを遮ったのだろう。兵たちのいる所が暗く影になり、また明るくなる。これも主題との関連でとても面白い。我々観客は普通そんなところまで見ないものだが、この映画ではカメラが一切助けてくれないため、観客の側が注意してよく見ていると細部の微妙な表現に面白さを発見することになるのだろう。

 実際はもっと豊かな意味作用があり、かつ、混沌としている。語り切れていないが、この映画の複雑で繊細な面白さを言葉で表現するのは困難だ。




詳説2 編集と時間



 編集はこの映画に独特の分りづらさをもたらしている要因の一つだ。同時に観客にもっとも楽しさを与えてくれる要素でもある。撮影と同様に編集においても、カットのリズムが物語上の意味の重要性と無関係に作品を独自に展開させていく。

『影武者』 走る武者のパン 物語上無意味で躍動感溢れるシーン この特徴もタイトル後に来るセカンドシーンですぐに表れる。1シーン1カットの長く重苦しいファーストシーンのあと、次に我々が目にするのは、その場に座り込んだり、寝ころんだりしている無数の雑兵たちの間を駆け抜ける一人の兵士の姿だ。彼は軽快な音楽に乗って、兵士たちを跳び越え、すり抜け、石段を駆けてゆく。彼は報告のために走っているのだが、ここを省略して彼が「本丸の水の手を掘り当てました」と告げる場面に繋げても物語の展開には何の違和感も生じないだろう。この場面は物語のためにあるのではない。その機能は明らかに、長く暗い屋内シーンの重苦しさから観客を解放してくれることにある。 明るい屋外で、兵士は軽快に走り、音楽に乗ってリズミカルにカットを重ね、物語上の意味も担わず、このシーンはあくまで軽く、心地好い。そして作品はここからまたゆっくりとした流れで緩やかに物語を進展してゆく。
 また、夜の野田城のシーン。野田城を囲んで武田の軍勢が佇んでいると城から悲しげな笛の音が聞こえてくる。その笛の音は静寂を際立たせるように響き、武田の兵たちも耳を傾けている。 ここまでの時間の流れは、観客が少し退屈を覚えるくらい緩やかだ。しかし、静寂を破って一発の銃声が轟き、兵たちが騒然となると、また急にカットがリズミカルにテンポを刻み始める。疾走する騎馬武者のカットを挟み、すぐに家康や信長にその報が届くシーンが短く続く。そして視点が武田方に返って来ると、また映画は緩やかな流れに戻る。

『影武者』 仰角で捉えた織田信長のバストショット これらをはじめ 『影武者』には一見不要なシーンが非常に多い。そしてそういう場面では大抵誰かが走っている。諏訪城で勝頼と侍大将の一人が話をしていると急にカットが替わって現れる湖畔を走る騎馬武者のショット、信玄の屋形へ駆けつける侍大将たちの場面などなど。1カットの短い映像だけのときもある。これらのシーンは不要であるという以前に、それを見ている間、何のことか分からないことも多い。大抵後のシーンで、おそらく伝令だったのだろう、などと思えるだけだ。これらは物語には何の貢献もしないのだが、この映画では稀な躍動感に溢れ、観客の心を高揚させるシーンになっている。映画全体の流れにおけるリズムも魅力的だ。静的で暗いシーンが少し続くと、必ず動的で鮮烈なイメージが表れる。時折現れるこれらのシーンは実に快い。この映画では物語の意義が殺されてしまっているからこそ、物語とは無関係なこれらのシーンとそのリズムの魅力は更に増す。その結果、意味や物語は益々拡散していき、観客を途方に暮れさせるのだが。

 そこに貢献する効果音と音楽の効果もいい。最初の例でも重く暗いファーストシーンに対して、兵士の駆けるシーンは音楽に乗って実に軽やかだ。動的な騎馬武者の疾駆も、必ず静的な場面の後に、その蹄の音を響かせて現れる。屋形へ駆けつける信廉や侍大将たちの場面も、蹄の音と音楽が観客を勇壮な気分にする。物語によって与えられている意味の上では、少しも勇壮な場面ではないのに。また、要所要所に現れる信長の場面は、この映画では希なクローズアップ、彼の鮮烈なキャラクター、そしてティンパニーの重い音によって強調され、もっとも効果的なアクセントとなっている。物語の重要な場面は、アップでないどころか、間接描写で処理されてしまうのに、敵方である信長にアップが多用されるのである。

『影武者』 走る騎馬武者 パンによって背景が流れる動的なカット このようにこの映画のリズムは物語の展開に何ら関係を持っていない。こうして『影武者』は半ば価値を失った意味の連関としての物語より、もうひとつの連関、意味を無視した一種音楽的な、変化しつつ持続する時聞的連関の方がずっと魅力的に感じられる。
 我々観客が映画を物語として認識しようとしているのに、それに反する編集の流れが物語の意味の因果関係の流れを無視するため、我々は何がなぜ どのように起こっているのか脈絡を見失って、音楽的な時聞の流れに身を任してしまうのだろう。そしてまたこの映画では、そうした方が登場人物の心理や物語の流れを追うよりずっと面白く見られる。交響曲を聞くようなものだ。映画は意味など分らなくても案外楽しめるものらしい。

 そして編集によって表現されたこの時間の流れもまた、緩やかに連関し合った意味作用をさらに豊かにしている。この編集の独特のリズムは、状況によって充実していたり、退屈だったりすることで伸縮する人間の体感時間とは対立する客観的な時間の表象となっていくのだ。




詳説3 脚本と物語



 信玄の死後、影武者の物語が起動するがそこに第二のファーストシーンとも言うべきシーンがある。影武者はじめ武田家の人々が能を観劇している。舞台では能役者が死者を描き出す虚構を演じ、それを見る影武者は信玄を演じ、侍大将たちは信玄の健在を装い、敵方の間者たちもそれぞれ、僧や町人を装いつつ事の真偽を見極めようとしている。表現はすべて虚無を描いていて、その全体を我々観客が見る。作品の構造を象徴したこのシーンから実体を失った影の物語が始まる。
『影武者』 アイデンティティを喪失しつつある影武者の悪夢 語られる物語は虚実の駆け引きを軸に展開する。影武者が何度か訪れる危機を乗り越えつつ、徐々にその下品さを削ぎ落とし、偉大な武将らしさを増してゆくという形で、ここでは物語も楽しく展開していく。その裏側では、影武者が彼の自己を益々失ってゆく過程を描いてもいるが。

 ここでの対立軸は真偽であって、危機として描かれるのは信玄の孫、側室たち、信虎の使者との対面や勝頼の劇中劇の台本にない問いなどであり、武田対織田・徳川の実際の戦闘はその影でしかない。高天神城の攻防戦でも戦いの実態は観客に隠されていて、影武者が信玄を演じ切れるか否かが描かれる。そして合戦の勝敗の行方は描かれない。物語のレベルで言えば、あくまで真偽の戦いに主眼がおかれているのであり、また作品全体のレベルで言えば、合戦自体にもその勝敗にも何ら意味はないということだろう。
 この場面で魅力的なのは影武者の周囲の緑色に染められた闇であり、音楽的な武田軍の動きだ。彼らが音楽に同期して陣を敷き、敵の襲来に部隊を展開する様子は、彼らの礼式、戦術に則っていて、非常に文化的、様式的に見える。その秩序だった行動様式によって、人々の心の中に実体を存在させようとしているかのようだ。我々人間は表現があればそこに実体を見るものだ。敵方の本多忠勝がそこに実際には存在しない信玄を見ることによって真偽の戦いは決着する。

『影武者』 真偽の戦いに勝利し続ける影武者 影武者はすべての試練を乗り越え、近習は「立ち居振舞いにも少しの危なげも御座りませぬ故…」と言い、信廉は「お屋形様が乗り移ったとしか思えぬ」と言う。そこに唐突に破局が訪れる。信玄の死が露見し、彼はただの男に戻る。しかしかわいそうに彼の内面は信玄であり、影であるままだ。彼のパーソナリティとアイデンティティは分裂していて、すでに無名の存在であるのに信玄の葬儀や決戦の地に赴いてしまう。彼の内面とその世界観は、公家の世界を除けば、当時もっとも高度に社会化されていただろう環境によって作られている。盗人という社会の埒外の存在だった以前の自分には引き返しようもないのだろう。
 かつて、男は行動と言葉の双方ではっきりと本来の自己を主張していた。盗人である彼は、その本性を表し、盗みを働いて逃げようとする。また捕らえられると、こう主張した。「俺は木偶じゃねえ。好き勝手に操られるのは御免だ」 しかし、その存在の主張の結果はここに見る通りとても空しい。そして映画の進行とともに死を象徴する緑色は男の顔を益々不気味に染めていく。
 そもそも彼は何者であったのか?と問うてみると、それは一つの謎だ。彼はファーストシーンでただ一度、自分を「小泥棒」と形容するだけで、ついに一度も名を名乗らない。近習や小姓と対面する場面でも、全員自分の名を名乗るのにその自己紹介の場でさえ彼は名を名乗らない。信廉らも決して彼の名を呼ばず、「影法師」「貴様」「この男」「その方」などと言うだけだった。描写の上で不自然には見えなかったが、名前の記入されていないアイデンティティ・カードを誰が承認するだろうか? 初めから彼の自己を奪うべく、準備は周到に為されていたようだ。影武者の役を務める彼はその存在自体、自我の虚構性を映し出す幻影のような存在だ。

『影武者』 緑色の不気味な影武者 最後の決戦において、彼の内面を形成している社会がその眼前で崩壊していく様は彼の自我の崩壊の描出でもある。彼を形成する意味や価値が無意味に戻っていき、彼を空虚にしようとしている。人間の自我が解体することで意味の秩序としての世界も解体し、主観と客観的世界はもはや同一のように見える。

 偽りに満ちた虚構を捨て去り、喜怒哀楽を伴った様々な仮象の人格を削ぎ落した後に見る世界は、原初的な驚きと新鮮な美しさに満ちている。そして映画がこのような種類の美しさと感動を実現できるということ自体にも驚いてしまう。




詳説4 諸要素の総合



 『影武者』では終局に至ってそれまでの矛盾が次々と解消してゆく。不協和音を奏でていた諸要素は統一され協調し合う。武田家の人々の生み出していた意味や価値が虚構に過ぎないことが判明し、虚しさを描き始めた物語がまず、虚無的な視点に統合されていく。

『影武者』 死に挑む武田方武将たちと爽快な空 武田家は信玄の存命中から敵味方に与える心理的効果によって勝敗を制御してきた。人の心を舞台に戦ってきた。しかし今や神話は解体し、最後の戦いではその技術や武器など物理的な次元で勝敗を決することになるのだろう。
 しかし、この映画の真の戦いは真と偽、或いは主観と客観などの間で行われていて、武田と織田・徳川の戦いはその具象面に過ぎない。抽象的なレベルでの戦いの結果がそこに反映される。信玄の死が明らかになった時点で勝敗は決しているのである。その勝利は常に臆断を許さず真実を求めてきた信長や家康にとってはすでに過去の事実のごとく確固としている。そして自己欺瞞から解放された武田家の人々も初めて彼らと同じ地平に立ち、同じ風景を見ている。今や彼らの目にも真実は明白だ。
 戦いに赴く武田の侍大将たちは実に爽やかだ。背後の透き通るような青空と、幻影を生み出すことに熱中していた彼らが今初めて、信長たちのように真実を直視している潔さのためだろうか。

 敵の軍勢は地平線まで続きそうな柵の向う側にいて、姿は見えない。信長と家康ももう我々の目に触れることはない。戦いは個性を持たない群衆によって行われる。物語にとってもそれはもはや必然であり、物語と視点の間には何ら矛盾はない。彼らの個々の人格など今や、物語の上でも無意味なのは明らかだ。それは無数の有象無象で形成され、最初から影のように存在感の希薄だった雑兵たちは従容として死に赴く。全ての幻影は虚無へと還元していく。戦う兵たち、それを傍観する勝頼や信廉、草むらからそれらを見守る影武者だった男。すべての人間が事態の展開にまったく影響力を持っていない。この戦いは真正の意味で客観的なものであり、人間による意味づけを剥ぎ取られた無人称の世界そのものだ。

 そして人間の心理を一切拒絶した冷たい現実が顕になる。そしてそれこそ、この映画が初めからその視点によって示唆し続けてきた世界であり、同時に隠し続けてきた真実の姿でもある。それは青空の下、見渡す限りの死だ。思い返してみれば最初から死者のように生命感のない人々だったではないか。彼らはその本来の姿に還っただけではないのか…。

『影武者』 人の存在が無くなった武田本陣 この素晴らしいラストシーンでは、それまで矛盾しあい相克してきたすべての要素が一つに溶け合う。視点のもたらす虚無感と物語の虚しさは見事に一致し、武田家の崩壊と男の自我の崩壊は同期し、それが観客を内側から溶かすように恍惚とさせる。編集の流れは、主観を無視して流れる現実の時間であり、もはや盗人でも影でもない男の自我や、豊かな様式に彩られ秩序だった武田家、それら人々の生命、その全てを緩慢な死に向かって解体してゆく。
 その風景は主観を排除し、暖昧な心理をつき抜けて爽快に澄み切ってる。
 『影武者』は冷たい死の映画だが、一片の虚偽も慰みも寄せ付けない高貴な映画だ。




 黒澤自身がこの映画の姿勢を適切に語っている。
 「決して絶望的な現実を直視するのは、ペシミズムではないんです。目をそらすのがペシミズムなんであって、現実を直視するのは積極的な態度なんだよね」


・『影武者』 (1) 黒澤明後期の特異な傑作


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批評なので基本的にネタバレです。できるだけ下記の方針で書きます

・作品外の周辺情報を考慮せず作品内の表現に基づいて評価する
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