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『ストーカー』 タルコフスキー 人類と恩寵

監督 アンドレイ・タルコフスキー 1979年 ソビエト映画

 この映画が娯楽作品として作られてないのは、主要登場人物3人が頭の禿げた中年男ばかりであることからも明らかだ。普通なら一人は美少女であるべきだろう。男性が感情移入し女性が憧れるようなカッコいい男もいない。科学者は帽子を被っていてもハゲだと察せられる。更にタルコフスキーはテンポというものを知らないらしい。眠ってしまいそうだ。
 しかし、これは失敗作ではないし、つまらない映画でもない。娯楽作品でないことを指摘するのは極めて易しいが、どこがどう失敗してるか指摘しようとすると難しいはずだ。この映画はただ、不特定多数の観客の好みやテンポに合わせることなど微塵も考えていないらしいというだけだ。それだけにストレートに自分とは異なる他者の内世界を体感させてくれるという、映画本来の面白さを備えている。キリスト教をモチーフにしてはいるがキリスト教徒にしか楽しめないという映画でもない。
 それに少しは観客のことも考えているようで、作家が部屋に入らないと宣言した途端、部屋の中に倒れこみそうになって、今ケンカしたばかりの相手に助けてもらうという可笑しいシーンがあったり、足の動かない娘が歩いているように見せてカメラが引くと実は肩車されているだけだったというようなシーンもある。
 実はとても面白い映画だ。

『ストーカー』 タルコフスキー この映画の面白さはまず映像と音響のその描写に感じられる何ものかの表現と主に登場人物の対話によって表れてくる世界観だ。
 常に扉や窓などで額縁のように仕切られた枠組みの中で捉えられる人々、水の様々な表情、鳥や犬など、その色褪せた絵画のような美しさと暗喩性。見えない列車、画面の外で落としたコップなど、映像では見せない存在の音による表現。キリスト教のイコンをはじめその他様々な表象はキリスト教徒ならもっと楽しめるかもしれない。しかし何を表現しているかはそれほど重要ではない。表現それ自体が魅力なのだ。
 そして世界観。物理法則に支配された退屈な世界、そこにもしかしたら存在するかもしれない奇跡とその危険性、芸術観や科学観など。そのほとんどを台詞に頼っているので表現としてそれほど希求力は持っていないが、その問題意識の切実さと水準の高さは十分窺える。彼らはそれぞれが人類の運命に直結しているかのように考え、幾分かの狂気を孕んでいるようだが、それが徐々に独特の世界観を形成し観客を巻き込んでいく。
 そして、末尾に置かれた場面で物理法則を無視して動いているように見えるコップ。それは奇跡を示しているのだろうか? 印象的な場面だ。

 物語は人の願望を叶えるというゾーンを目指す旅の苦難とその行く末を描いている。
 ゾーンについての明確な事実は軍隊が全滅したこと、確かに住民がいないこと、鳥が消えたり、誰も発声していないのに言葉が聞こえてきたことぐらいだろうか。ヤマアラシが大金持ちになった後に自殺したことも複数の人物から語られているし一応信じてもよさそうだ。
『ストーカー』 タルコフスキー 少なくとも登場人物たちはゾーンが人の願望をかなえる力を備えていると信じている。しかし映画の中で実際に目にすることができない伝聞情報が多く、ゾーンの力は実は観客には何も分からない。ゾーンが厳重に閉鎖されている事実はあっても、その中にある死体や不思議な炎はゾーンとどのように関係するのか、又はしないのかは観客次第だ。ゾーンが願望を叶えてくれるという噂はあるが、ストーカーはゾーンから戻った後は自分の案内した人とは会わないので実際に幸福になった人は見たことがないと言い、部屋を目前にして作家がストーカーを問い詰めると、彼はゾーンについてもヤマアラシのことについてもヤマアラシ本人から聞いた伝聞情報しか持っていない。全て噂話、妄想であってもいいわけで、彼らの神のように信じるか、信じないかという存在だ。
 ストーカーはその言動から奇跡を信じる熱心なキリスト教徒であることが示される。彼は宗教的な奇跡とゾーンの機能を同一視している。彼のゾーンに対する言動は神に対するそれだろう。作家と科学者にも当然のように話が通じていて彼らも同じ文化を共有していることが分かる。神の奇跡のような超自然現象を信じることがキリスト教徒であることに含まれている。彼らにはとても切実な問題だ。
 しかし、皆ゾーンの奇跡を信じてはいるが、意見は合わない。ストーカーは敬虔な宗教心から人々を案内していることを告白するが、作家は自分の醜い本性を知りたくない故に部屋に入らない。科学者は危険だと言って爆破しようとする。もっとも部屋に入りたいのはおそらくストーカー自身だろう。三者三様に不幸でゾーンに相応しいように見えるが、誰も入ることはない。

『ストーカー』 タルコフスキー 無意識の願望を叶えるというゾーンはそれを見る人を映しているのだが、芸術は人間の本性を偽り表面を飾り付けるだけのものなのだろうか? 科学は自己破壊的なだけだろうか? 宗教が祈ることしかできないというのはいかにもそれらしい。人間は確かにこういう存在かもしれない。
 しかし、人々の話すゾーンの属性は信じられなくとも、ゾーンが存在することはこの映画の中での真実だ。そしてただ一人、動くコップを見つめていた少女の存在も。

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