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『丹下左膳余話 百萬両の壺』 才気煥発な現代的コメディ

監督:山中貞雄 出演:大河内伝次郎 1935年

 古い映画が時々、現代の映画より現代的だったり、ずっと出来もよかったりすることがあるが、これもそんな1本だ。現代の作り手は過去の文化遺産から出発できるのだから、理屈の上ではそんなことはありそうにないように思えるが、それがあるのが芸術という分野の面白いところだ。

『丹下左膳余話 百萬両の壺』萩乃を幸せにする源三郎と左膳の演じる虚構 喜劇であり軽い作品だが、軽薄だったり浅はかであったりはしない。この映画では現実と同じように人の死や借金は笑いでは何の解決にもならないし、「三文の値打ちもない」はずの壺を「百両で」と言われ、簡単に騙されて観客を笑わせるような登場人物は出てこない。喜劇だからといってそのために人物を愚鈍に描いたりする映画ではないのだ。押さえるべきところは押さえた上で軽い笑いを演出していて、何より山中の映画ではいつも作品世界の構築が、人物の設定や物語の展開に先行して非常に強固になされているので、観客はリアリティの喪失を恐れることなく安心して楽しめる。

 映画は冒頭で百万両の壺を提示し、その行方を追っていくことで、作品世界が経済によって規定されている様を描き出していく。二万三千石とは言え領地を持ち、立派な城に住む柳生但馬守から始まり、彼らに「貧乏」と言われる次男、源三郎の家は十分裕福そうに見える。貧相なこけ猿の壺を、源三郎は「一両」、妻は「三文」と値踏みし、柳生の使者は「三文の価値もない」と言いつつ百両で買い取ろうとする。ボロボロで見るからに貧しそうな屑屋はそれを十文で買い、同じく貧乏暮らしのちょい安に無料でやる。庶民は一両を求めて壺を持って殺到し、丹下左膳の借金は六〇両。具体的な金額が頻出し、人々の外見、生活や発想が常に経済と結びついている。
『丹下左膳余話 百萬両の壺』壺の行方を追っていく物語
 また、登場人物たちには封建主義的な面が全くなく、この映画の描く武士は「日本一の大金持ちに」などと言い出してしまう。丹下左膳は矢場の居候だし、源三郎は次男という貧乏くじを引いて家父長制も大嫌いだ。

 非常に現代的で感情移入しやすい世界になっている。いや、現代的という言い方は実は正しくない。山中の時代劇は公開当時から "現代的" と形容されていたのだ。20世紀前半と21世紀前半、全く時代の異なる観客に等しく現代を感じさせるのは、現代的であるからでなく普遍的であるからこそだ。現代の我々も含め、どんな時代であろうと人は同時代の思想から自由ではいられないのに、この映画の作り手はその只中にありながら、人が社会を営む限り逃れられない普遍的な世界を抽出して見せてくれている。類まれな感性と見識と言うべきだろう。

『丹下左膳余話 百萬両の壺』夫の名誉挽回に微笑む萩乃 登場人物のキャラクターはそれぞれに魅力的で、当時大人気だった丹下左膳も本来こんなコミカルなキャラではなかったろう。しかし時代を越えて後の世に残ったのは、この人間味溢れる楽しい丹下左膳だ。また、ほんの数シーンしか出てこないような人物も固有のキャラクターを持ち、彼らには物語の都合に強制されるような言動が全くない。目立っているのは丹下左膳と源三郎だが、それは物語上の偶々で、登場するすべての人物が等しくそのキャラの表現に注意が払われている。
 一方物語は物語で、人物に依存したり、引きずられたりもしない。人物描写が物語の都合に左右されないように物語も物語自身の論理で展開する。冒頭で観客を百万両の壺でひきつけ、その経済的価値を求心点として物語を展開し、人物はその随伴物のように登場させていく。丹下左膳の活躍も物語の本筋と関係のないところに設定されていて、この辺のバランス感覚が絶妙だ。おかげでGHQの検閲も作品の価値を完全に毀損できていない。

 表現面では編集の簡潔さが特徴的だ。柳生の部下が源三郎のいる江戸に向かう展開で、彼らが歩いている場面にその部下の台詞が被さってくる。最初は芸のないモノローグかと思うが、次のシーンで到着した彼が相手に話をしていたのが分かる。映像に音声が先行していたのだ。
 他にも逆説的なギャグをはじめ、全編観客が想像で埋めるであろう部分は先回りして省略している。飛躍が大きくなると前衛映画に近づいていくだろうが、省略が不特定多数の観客の感性に合っていて快い。描写と物語の関係などにも見られる特徴だが、バランス感覚が非常に優れていて、それがこの映画の大きな魅力となっている。

 そして終盤に用意された価値観の転倒が『丹下左膳 百万両の壺』の眼目だ。
 百万両の行方を追っていく物語は、徐々に魅力的なキャラクターが前景化して喜劇的に展開していく。そこでとても面白いことが起こっている。
 観客の注意が百万両の行方から登場人物たちの成り行きに移行するのに伴って、百万両の壺とともに経済の価値そのものが減じていき、最後には作中あれだけ具体的に描かれ、人々をそのために奔走させた経済的価値がどうでもいいものになってしまっているのだ。
『丹下左膳余話 百萬両の壺』百万両を越える価値を帯びた日常の遊び 物語の核心であったはずの百万両の在処は結局描かれないが、誰もそんなことに文句をつけようとは思わないだろう。それこそ野暮というものだ。我々観客は最後になってさりげなく価値観が転倒していることに気づかされ、気持ちのよいハッピーエンドを迎えているのだから。

 軽く楽しい喜劇の展開する普遍的な世界、経済的な世界観とその転倒、無為な遊びに興じる人々の裏面に微かに感じさせる虚無感などに、表面上の軽い喜劇を支える土台の堅牢さが垣間見える。それは作り手の優れた感性と見識によって形成されているのだろう。しかし我々観客がその内実を知る必要はない。その効果によって我々は十分この映画を楽しんでいるのだから。

 ただ、途中、壺の行方からキャラクターに観客の興味を移行するあたりやクジの通りに望遠鏡で壺が見つかってしまう展開などに多少の中だるみがあったり、同じパターンのギャグの繰り返しや無声映画に被せたような音楽などは、さすがにちょっと古くなっているように見える。まあ、ちょっとした瑕疵だが、作品全体の価値を毀損するようなものではないだろう。

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