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『勝手にしやがれ』 作り手の自由さ

監督 ジャン・リュック・ゴダール 1960年 フランス映画

勝手にしやがれ 自由な撮影と編集、単純な物語とそこからズレた描写など、個性的な映画だ。ただ、現在では様々な立場の人によって少し語られ過ぎた映画でもあって、新たな観客が先入観なしに見ることが難しくなっている面もある。しかし勿論、観客は自らの感性で自由にこの映画を楽しんだ方がいいだろう。個性的な手法に新鮮さを感じたり、女優にフォーカスした描写を楽しんでもいいし、または多用されるジャンプカットが斬新さに届かず、陳腐なアマチュア臭さに留まったり、キャラクターに魅力を感じないことで描写に冗長さが伴うこともあるかもしれない。鑑賞は自由だし、それが我々の感性を育ててくれるだろう。

 撮影や編集が実に自由に、勝手気ままに為されている。撮影は手持ちカメラで揺れながらあちらこちらに振られるし、編集はジャンプカットが多用され同一シーン内の時間を寸断していく。描かれる内容以上に作り手の存在を印象づける映画だ。安定しないカメラは撮影者の存在を、ぎこちないカット繋ぎは編集者の存在をそれぞれ観客に意識させる。1960年当時の斬新さは無くなったが、アマチュアが突然商業映画を撮ったような、個性的で面白い効果だ。

 物語は単純だ。自動車泥棒のミシェルが警官を撃ち殺し、パトリシアの部屋に転がり込む。ミシェルはパトリシアに執着しているが、彼女の態度は曖昧だ。やがて彼女は警察に密告する一方でミシェルには逃げるように言うが、ミシェルは逃げることなく友人の投げた銃を拾ったところを射殺される。

 この物語の中でもっとも充実した描写をみせるのは、意外なことにパトリシアだ。物語上の要請を越えて描写はパトリシアに執着する。冒頭からずっとミシェルを追っていたカメラはパトリシアが登場すると彼女を優先しだす。2人が分かれた後パトリシアを追っていたカメラが彼女とともに部屋に戻るとそこにミシェルがいる。そこから物語の進展をしばし止めて、部屋での2人のやり取りが、彼女のディティールと男女の対照に焦点を当てて、時間をかけ丁寧に描かれる。
 パトリシアは横断歩道の点描の上を歩き、鏡の前で容姿を整え、クマのぬいぐるみを抱き、鼻を人差し指でこする。2階からスカートを翻し、サングラスをかけ、短い髪を櫛で梳く。彼女の表情、言動、立ち居振る舞いが細大漏らさず描き出される。『勝手にしやがれ』は描写の面では彼女のための映画と言っていいだろう。

勝手にしやがれ 内容の上ではセックスと死の描写が特徴的だ。
 男と女、セックスを巡る対話と行為は作品の大きな割合を占め、男は時間など存在していないかのように振る舞い、女は時間の中に生きていて互いに齟齬をきたす。作家は愛とエロチシズムを同一であると言う。
 交通事故で死ぬ通行人、射殺される警官、ミシェルの死。皆不運で必然性のない死だ。ミシェルは逃げようとせず、撃つ意思がないのにわざわざ刑事の前で銃を拾う。その死にはとりわけ不条理さが漂っている。死はこの映画の中でパトリシアの質問に対する作家の答…不老不死の上での死だけが必然的だ。
 実存主義的な内容と女性の描写でできてはいるが、それよりも表層の魅力に勝った映画だ。

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