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『河内山宗俊』 現代においても新しい映画であり続けている

監督 山中貞雄 1936年

『河内山宗俊』 原節子演じるお浪 この映画は日本映画の歴史にとって価値があるというだけでなく、おそらく現代の一般的な観客にとっても面白く、色々な意味で驚かせてくれる映画だろう。新人女優の原節子も新鮮だし、斬新な編集、見事なアクションシーンもある。何よりキャラクターが魅力的だ。
 山中貞雄の現存作品としては他2本より知名度が低いのはなぜだろう? 明解な悲劇や喜劇にカテゴライズできないせいだろうか?

 脚本も描写も冒頭から非常によくできている。
 山中の描く世界はいつも経済によって人々が規定されているが、ここでもまず金銭のやり取りとその流れを描くことで作品の世界観を提示し、市之丞の楽しいキャラクター、物語の中心となる姉弟、鍵となる小柄(こづか)、主人公の宗俊と、映画の主要な要素を次々に描き出していく。人々の賑わいの中、蝦蟇の油、居合抜き、的屋、甘酒を売るかわいい女の子、市之丞のギャグなどで観客が楽しんでいる間にそれらがサクサク処理されていく。簡潔、的確でほれぼれする様な手際だ。
 その奥では主要人物の芝居とは別に名もない人々の賑わいが丁寧に描かれている。将棋屋が広太郎を捜して宗俊の家に来る場面では1カット、1秒あるかどうかという短い間にもその背後では当時の生活がしっかり演じられている。作品世界の描写に隙がない。いや、そんなことよりも作り込まれた作品世界の描写それ自体が魅力だ。

 編集も端的で気持ちいい。賭け将棋の対戦で宗俊が凄むと次のカットではもう負けた相手が親分に怒られている。技巧を印象づける逆説的なカット繋ぎ、同質のギャグのくどい繰り返し等は抑制され、『丹下左膳 百万両の壺』の頃と比較してもより洗練されている。ラストの大胆な省略はとりわけ斬新だ。

『河内山宗俊』 あっという間に仲直りする宗俊・市之丞と2人に酒を注ぐお浪 飄々とした市之丞をはじめ人物の設定、描写も魅力的で、彼らの人柄から出るコミカルな場面が要所要所に配置されていて観客を楽しませてくれる。
 そしてその裏面では彼らの住む世界が経済によって規定されている様が描かれる。小柄につける値には作品世界におけるその人物の社会的な立場の違いが表れ、3文5文の甘酒を売るお浪が300両を作るためには自分自身を売るよりない。人々は経済によって世界と不可分に結びついていて、それが一層人物描写を確かなものにしている。
 市之丞は実に愉快な人物だが、命を危険に晒す大芝居を打とうとする際の宗俊との対話は、観客に彼の抱えた虚無を感じさせずにはおかない。楽しい彼のキャラクターは決して楽しくない虚しい人生に形成されているのだ。
 広太郎やお静の愚かさが映画に悲劇をもたらしているが、その感情表現に嘘はなく、彼らも決して物語を展開させるためだけの都合のいいキャラクターではない。
 お静がお浪に脅威を感じている様は序盤からさり気なく演じられていて、そんなことは思いもよらない宗俊が気づいていないだけだ。最後に誤解が解けた際の彼女を見れば宗俊に対する気持ちも明らかだ。博徒の情婦らしい愛情のあり方ではないか。
 広太郎は、作中で「ものの価値が分からんというのは実に罪悪ですな」と評される通り、愚かな少年だ。学もなく、博徒に憧れ、盗みも働くし短絡的に花魁と心中もする。一方で市之丞に問い詰められると泣きながら素直に「ごめんなさい」と言い、姉を助けるために無謀にも命を懸けて的屋の親分の所に乗り込む。世界の大きさを知らぬゆえの若い愚かさと哀れさを誰が笑えるだろうか?
 その美しさも醜さも含め、人物描写がとても魅力的だ。

 音楽の演出は少し変わっていて、この点では洗練されているとは言えない面もあるかもしれないが、独特の魅力もある。
 雪の降ってくる場面では時代劇としても、使用される他の楽曲ともそぐわない音楽が使われる。最初のうちは全く映像に合っていない。が、屋外の雪景色になるとぴたりと映像に嵌り、美しいシーンを作り出す。
 クライマックスにおいても人々が戦い始めると大音響で音楽が鳴り響く。しかし、これが映像と並行的な曲で、せっかくのアクションを殺して観客がその描写を味わえないように流していってしまう。しかし、これもシーン途中で止むと、一つ一つのリアルで緊迫感のある動きや音の描写が際立ってくる。宗俊たちが掘割を進む際の水飛沫の音も効果的だ。音楽はそれらの情感を先取りしていたようだ。
 いずれの場合も音楽は映像に先行するように使用されていて、使い方が個性的だ。『丹下左膳 百万両の壺』でも音楽ではないが柳生の部下が江戸に赴く描写で台詞を場面転換に先行させていたが、こういった独特の感性が山中の作品でなければ味わえない魅力を作っている。

『河内山宗俊』 死を覚悟して戦いに赴く宗俊・市之丞 アクションシーンは特に素晴らしい。
 現代の凡庸なアクション映画が迫力を出すためかカットを細かく割ってアップを入れたり、感情を盛り上げようとして人物の台詞や心理描写を挿入し、リアリティや時間の流れを壊してしまうのとは全く異なる。『河内山宗俊』はまず脚本の段階で、戦いに物語上の必然性があり、登場人物たちには戦いに赴く自然な感情の流れがある。特に市之丞の扱いが見事だ。演出においても殺陣には型などない。文字通りの乱闘だ。斬られる瞬間が映ってない場合もある。場所も屋内や路地裏、掘割など限定された空間に設定されて緊迫感を増し、画面の奥で行われる戦いをわざわざアップにしたり、カットを切り替えるようなことはしない。そのまま手前で戦う市之丞たちの奥にカメラに映ろうが映らなかろうが全く気にしていないかのように捉える。固定されたカメラの客観的な視点がリアリティに溢れている。技巧を観客に意識させない自然さが素晴らしい技巧となっている。

 そして、物語の中心である姉弟の行末を描き切らず、姉の元に向かって手前から奥へ全速力で駆けていく広太郎のカットで映画は突然終わる。観客の感情の盛り上がりが最高潮に達すると同時に映画を終わらせてしまうのだ。観客が想像で埋めるであろう部分を先回りして省略するのが山中のスタイルであり美点だが、ここは平均的な観客の感性からすると先鋭的過ぎる。しかしだからこそそのインパクトは絶大だ。切迫する危機、一刻も早く姉を救い出さねばならない焦燥…それらに編集が見事に同期して、その疾走感と唐突なラストの衝撃は観客をしばし呆然とさせる。実に斬新で印象的なラストシーンだ。あの走り去る広太郎の後ろ姿を忘れることのできる観客がいるだろうか? 日本映画史上屈指の名シーンだろう。

 『河内山宗俊』は明確な悲劇や喜劇ではなく、物語としての曖昧さを残す。『人情紙風船』の新三の行末が観客の想像力を信じた省略だったとすれば、ここでのお浪と広太郎の行末はもはや省略と呼べるものでなく、未知そのものだ。観客の心に決して辿り着けない永続する可能性と焦燥とを残して映画は終わる。この素晴らしく卓越した表現によって山中の描く世界の広さと奥行はより鮮明に作品に反映されている。日本映画の傑作であり、山中の一つの到達点だろう。

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