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『雄呂血』 視点と描写の乖離が美点となった映画

監督:二川 文太郎 脚本:寿々喜多呂九平 出演:阪東妻三郎 1925年



 阪東妻三郎プロダクションの第一作目。後世の批評が語る通り、殺陣の当時における斬新さ、時流に合致しての大ヒット、それらによって時代劇を刷新したこと等が日本映画史上の意義だ。日本映画の発展に寄与したことは間違いないだろう。しかし、『雄呂血』には歴史的な価値に留まらない普遍的魅力がある。そのことについて語らなければ現代において改めてこの映画を批評する意味はないだろう。

雄呂血 平三郎が奈美江を力ずくで取り押さえようとする様子
  字幕テクストに反し、映像は平三郎が拒絶する奈美江を
  力ずくで取り押さえようとする様子を客観的に描き出す
 この映画を体制に挑む孤独なヒーローを描いていると解釈できる人には面白いはずだ。実際、当時の観客はその趣旨に沿って大いにこの映画を楽しんでいる。ただ、そういう見方のできる人は現代では少ないだろう。大多数の観客には、主人公がただの頭の悪い犯罪者に見えてしまうに違いない。はっきり言って映画の出来は良くない。
 但しそれは作り手の意図を外れているという意味においては、だ。

『雄呂血』の魅力は作り手の意図を反映した視点とそれに反した描写の相克にある。

この映画の美点は観客が作品の趣旨に共感できなくても、実はそれに少しも左右されない。
 ならず者が実は善良であり、善人と称される者が実は悪人であるという作品の趣旨は正直言って幼稚だ。しかし描かれる内実がその趣旨に沿った視点と異なっているのだ。それがこの映画の最大の美点だ。この構造が偶然の産物にしろ、意図されたものにしろ極めて優れている。視点と描写の齟齬が作品を破綻させることなく、却って多様な解釈を可能にしている。
 この映画では主人公の台詞は勿論、客観的なはずの状況説明的な字幕までが、彼の主観を反映していて、観客は彼の偏った視点から歪んだ世界を見ることになる。これがとても面白いのだ。描写が視点に反して客観的でニュートラルな世界を示し続けているからこそ生まれる効果だ。

 主人公の平三郎はまず冒頭の宴会で、家老の息子が勧める酒を頑なに断り続ける。相手の地位を考えればこれだけでも結構勇気のいる対応だろう。しかしすぐに、実は彼が何も考えてない不用意な人物であることが分かる。相手が怒ると彼はなんと逆に睨みつけて、無礼講の酒席で無礼だと言い放つ。自分より立場が上の人間への態度としては実に不適切だが、更に酒をかけられたことで自分も激昂してケンカをしてしまう。痛快な言動なのだが、同時に彼がかなり直情径行で危険な人物でもあることも分かる。
 結局、平三郎が一方的に悪いことにされてしまう。まあ、誰もがそうなるだろうと予測できる結果だ。が、彼は如何にも納得いかないという表情で周囲の人々にも罵詈雑言を浴びせ、もうひと暴れする。益々味方を無くす行為なのに彼にはそれが理解できない。2人とも愚劣だが、どちらが損をすることになるか、なぜそうなったのかも理解できない平三郎の頭の悪さは度を越していると言っていいだろう。感情をコントロールすることも全くできないらしい。実に面白いキャラクターだ。
 彼はさらに別の喧嘩をして先生から破門され、好意を抱いていた奈美江には絶交される。その時の彼の台詞がまた可笑しい。
 「俺には少しも悪いところは無いのだがなぁ」

 もちろん彼の行動はどんどんエスカレートしていく。「少しも悪いところは無い」のだから当然そうなるだろう。先生の家に侵入し絶交を言い渡されていた奈美江を襲い、取り押さえようとする人々と戦う。これも彼自身は襲ったつもりが全くないのが凄い。彼はあくまで被害者なのだ。字幕はこうだ。
「平三郎は此の場合斬って斬って斬りまくってやりたかった 然し恋する奈美江の感情を之以上害し度くは無かった」
 認知機能に重大な問題を抱えているのだろうか? 自分を客観視することも他人の感情を理解することも全くできない様子だ。
 実に面白い描写だが、作り手はこれを正しくて善良な平三郎の受難として描いているように見える。その狙いはおそらく失敗しているが、描写が彼の主観的な解釈とは別に事実を淡々と伝えていて、映画は全く破綻していない。観客の多くは狙いとは別の解釈をするだろうというだけだ。逆にそこに生まれた両義性が魅力になっている。

 彼は奈美江やお千代に言い寄るが、2人が彼を一貫して嫌っている描写がいい。彼の主観的な世界と実際の世界の乖離を見事に表している。彼の執拗さも不気味でいい。もしかしたら観客によっては純粋で情熱的と感じられるかもしれない。彼は自分が嫌われているとは思っていないし、映画は彼の視点から描かれてもいる。どのように観客が感じようとそれはあくまで観客の自由な解釈であり、多様な解釈を可能としているこの映画を称賛すべきだ。こういった効果を脚本は意図していなかったはずで、なぜこんな表現ができたのかは分からないが、とにかく結果は素晴らしい。

雄呂血 お千代を襲おうとする平三郎
 映像はここでも平三郎の主観に反し、彼がお千代の誘拐を
 黙認し、同心相手に刀を抜いて暴れる様を客観的に描く。
 主人公が数十人と剣を交えて延々と戦い続けるなど、描写はさすがに古びている部分もある。しかし、これは日本映画が映画になろうとしていた過渡期の作品であり、まだ歌舞伎をフィルムに収めただけのような作品や女性を女形が演じていたような時代だ。その中でこれだけのリアリティは画期的だったのだ。

 やがて平三郎は藩を追われ、罪人となり、いつしか彼の周囲には犯罪者しかいなくなる。見事な転落振りだ。彼の思考も行動も観客から見れば愚劣な犯罪者の典型だが、彼と彼の立場から語られる字幕は最後まで自らの正しさを主張し続ける。そういった彼の性格がそれに見合った境遇を引き寄せていく展開が妙にリアルで、視野狭窄を起こしたような歪んだ主観の描写が実に優れている。

 作品の視点と描写が乖離し、奇妙な面白さを持った映画だ。当時における斬新さや殺陣の魅力といった評価とは別に、現代の視点からこの作品の優れて個性的な構造は再評価されるべきだ。脚本は寿々喜多呂九平による。

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