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『わが青春に悔なし』 時間のコラージュと前後半の矛盾

監督:黒澤明 出演:原節子・藤田進 1946年

『わが青春に悔なし』男物の帽子を被って笑う原節子 コラージュ的な編集が魅力的な映画だ。
 家に訪ねてきた野毛が退出する際、彼が気になって仕方ない幸枝が見送るかどうかドアの前で逡巡する。その様子が10秒にも満たない間に4度もオーバーラップを重ねて描かれ、更にその後、一転して無表情に野毛を見送るショットが繋がれる。彼女の葛藤を端的に示して優れた心理描写となっているとともに、単純に表現としてとても魅力的だ。

 幸枝が野毛の事務所を訪れる場面でも、オーバーラップで1カットごとに日が変わる。彼女が建物から出て右へ去り、雨の日に傘を差した彼女が左に歩き、強い風で落葉が舞うなか着物姿の彼女が右へ去り、晴れた日差しの元スーツを着て左へと歩く。カメラは常に同じ位置で建物の中から彼女をパンで捉えて、前景と後景が流れる魅力的な画を作り出し、時間を大胆にコラージュした編集は同じ場所、同じ人を描きながらそれ以外の全ての差異を鮮明に浮かび上がらせる。時間の表現に抗しがたい魅力が宿っている。このたった4つのショットの間にどれほどの月日が流れたのだろう? 

『わが青春に悔なし』オーバーラップで繋がる4つのカット。それぞれ日にち・天候・服装が異なり、その都度カメラが原節子を逆方向のパンで捉える。

 結婚生活の描写でも、映画を見て笑う野毛と下を向いて泣く幸枝、男物の帽子を被って笑う幸枝、山へのハイキング……、僅かな時間を切り取り繋げたコラージュは躍動感に溢れ、短く充実した2人の時間を生き生きと描き出す。

 これら一連の場面は技巧が冴えわたり、映画的な時間の快感に満ちている。作品としての完成度を気にしてこれらの傑出した表現を見過ごすのは馬鹿げている。逆にその魅力的な時間表現がこの映画を価値あるものにしているというべきだろう。

『わが青春に悔なし』喜びから悲しみへ瞬時に感情を変化させる幸枝 また、脚本、演出ともに原節子の魅力を最大限に引き出そうとしていて、この映画は彼女の存在感、演技力なしには成立しない。実に多くのことを要求されていて、彼女の方もそれに全力で応えているのが画面から伝わってくる。笑い、泣き、時に人を見下し、蔑み、迷い、絶望し、微笑み、世間知らずなお嬢様が大人の女性になるまでを見事に演じきっている。それはそのままこの映画の基本プロットであり、政治や思想を描く前半部が邪魔になっているくらいだ。主人公・幸枝のキャラクターとそれを演じる原節子がこの映画の根幹だろう。





 ただ、優れた部分が沢山ある映画なのだが、黒澤自身の言う通りやはり『酔いどれ天使』より前の作品であって、後の彼の映画と比較するとかなり見劣りがするのは否めない。個々の被写体やショット、シーン等、映画のあらゆる構成要素が対立し相克する黒澤らしい魅力に乏しい。

『わが青春に悔なし』幸枝と野毛の短く充実した結婚生活 脚本も前半の政治劇と後半の1人の女性の物語が有機的に結合して相乗効果を上げる…とはいかなかったようだ。二つのモチーフがまったく噛み合っていない。前半のシナリオは明かに政治劇を想定した導入となっていて途中まではその通りに進んでいくのだが、京大事件が収束するとシナリオが変質する。映画は政治や思想に全く価値を見出さない幸枝に熱中していき、野毛がどのような思想を持ち、どんな具体的な行動をなしたかの描写が一切存在しない。実に奇怪な展開だ。前半の丁寧な前フリは何だったのだろう? 結果、映画は作品として破綻していく。ここで興味深いのは作り手がそれを黙認していることだ。実際、社会を描いた前半の陳腐さに比べ、個人を描く後半はずっと面白くなっていく。

 序盤から京大事件までの展開や描写、野毛のキャラクター等は作為的、かつ、政治的で、敗戦直後の視点から事後的に戦前・戦中の人々に対する一方的な価値判断を行ってもいる。更に共産主義者としての野毛が肯定される。当時のGHQの要請には合致していたのだろうが、これらは普遍性を持たないだろう。幸枝の物語を起動させるための前提としては一応機能しているが、詳細に描き過ぎてバランスも悪い。予期せぬ脚本の改変があり、作り手も時代の中にいて時流の影響も免れなかったのだろう。共産主義の啓蒙になる可能性もあった映画が共産主義者に脚本の変更を強制され、却って芸術的価値のある映画になったのは皮肉な結果だ。

 しかしおそらくこの歪な構成は黒澤自身の中に最大の要因があるように見える。黒澤の場合はいつも意図に反して芸術性が社会性を越えてしまう。そこに黒澤の個性が出ている。このことをもっともうまく解説しているのはドナルド・リチーだ。
 「自分の作品が社会的に役立ってほしいと黒澤は願っているのだが、彼の才能はその願いを越えてしまうのである。」
 「不正に対する怒りの心が、この作品を作ろうと黒澤が決めた最大の動機であった」「だが、作品そのものの中では、軍国主義的なゆき過ぎも自由の喪失も、強調されるところはほとんどない。なぜなら黒澤の常として、彼が興味を持ち、心をうばわれるのは、たとえば自由の喪失というような要因が具体的にどのように人間に作用するか、生きた性格がいかに全身全霊に、人間的に反応するかにあるからである」

 このことによって『生きものの記録』における人類の核兵器所有の問題は家族劇に変質し、『醜聞』のイエロー・ジャーナリズムの問題は弁護士蛭田の心の物語となる。『我が青春に悔なし』では軍国主義と自由主義の対立、共産主義の肯定などが価値を失い、全身全霊で生きた一人の女性の物語となる。後半に主題が変わり、変な映画になってしまってはいるが、そのことで作品は逆に時代に左右されない普遍性を手に入れている。

『わが青春に悔なし』楽しい場面で悲しむ幸枝 この映画を政治劇として見る観客からすれば、後半はそこに全く焦点が当たっておらず、その主張の内実も時流に乗った幼稚なプロパガンタに過ぎない。明白な失敗作に見えるだろう。
 しかし、別の見方もある。幸枝の映画として見る観客には前半の政治的、思想的な部分が無用な混乱をもたらしてはいるが、一人の女性のキャラクターとその生き方が鮮烈な印象を残す優れた映画だ。

 そして観客によってどのように解釈されようと、それに影響されることのない自由で魅力に溢れた時間表現が光る映画だ。

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