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『蜘蛛巣城』 完成された世界と物象化された人間

監督 黒澤明 1957年

 『蜘蛛巣城』は美しく、完成された映画だ。そしてその作品の美的な完全さがそのまま自由の無さの表現となっているのが特徴的だ。完全であるということは即ち美であり、自由の存在する余地がないということでもある…少なくとも映画を見ている間は観客にそう信じさせずにはおかない。

 構成要素は厳格にその役割を規定され、すべての映像、すべての時間が統制されている。現在で過去を挟み込む構成と、予言が有効な作品世界の設定が物語の展開を必然にし、編集がそこに貢献しない描写を徹底して排除する。その厳選された描写の中にあって人間の意志と行為の無意味さだけは濃密に描出される。内容的には絶望を形象化したような映画だ。

蜘蛛巣城 運命を紡ぐもののけ
 運命を紡ぐもののけ。森や鎧武者の黒、霧やもののけの白
 などが色彩鮮やかな映像を作っていく。
 作品構造は強固で、冒頭でまず蜘蛛巣城が滅び去った「今」を設定し、過去の出来事として物語を語り始める。これから描かれる登場人物たちの思考や行動はすでになされており、もう変更の余地は無いという訳だ。さらに予言の成就していく物語が過去の側からも自由と可能性の存在を阻み、その上でラストが冒頭と同じシーンで綴じられ、円環構造の中に内容を完全に閉じ込めてしまう。自由と可能性の排除は、まさに悪魔のような細心さで為されている。

 物語の展開においても『マクベス』では必ずしも前景化されていない運命論的な世界観を前景化し、元々完成度の高い原作を単純化することで更に完成度を高めている。マクベス夫人を妊娠させることでマクベスにバンクォー暗殺を強い、死産は夫人の発狂のきっかけにするなど、追加された部分は全て物語の展開を増々強制的に、確固としたものにするために機能している。
 また、鳥が夜の城内に飛び込んでくる描写は非常に魅力的で、その意外性と解放感はこの閉塞感に覆われた映画の中で爆発的な効果を発揮している。しかしそれが実は森が動く準備であることも明白で、魅力的であると同時に絶望的でもあり、意地の悪い構造になっている。

蜘蛛巣城 三船敏郎と山田五十鈴
 山田五十鈴と三船敏郎の見事な演技。浅茅は微動だにせず
 瞬きさえしない。武時は視線が定まらず意味なく動き回る。
 描写はそれ自体として美しく魅力的だ。この映画の中で真っ先に観客を捉え魅了する要素だろう。霧や亡霊の白さと森や甲冑などの黒さが作り出す水墨画のような映像、厳格な構図、フルショットで捉えた山田五十鈴と三船敏郎の様式的で見事な演技、夜の城内に鳥が飛び込んでくる場面や武時が射殺される場面などのリアリスティックで迫力溢れる描写、全編が惚れ惚れするような素晴らしい描写で埋め尽くされている。

 そしてそれら全ての描写に意味が充溢している。そこが『蜘蛛巣城』の特異なところだ。冒頭の滅び去った蜘蛛巣城の跡、運命を言い当てる物の怪が回す糸車、黒い森と白い霧での堂々巡りなど、厳格な美意識に統一された描写のすべてが、閉塞した時間と空間を作り出し、導入部ですでにイメージの面からも作品世界の構造が形成されている。

 主君暗殺の場面では武時が自身の意志でもののけの予言の成否を決定できる立場にあり、物語の上ではまだ自由が存在し得る状態だが、そこではカメラが突如としてフルショットで武時と浅茅を捉え美的で厳格な構図の中に彼らを拘束し、型に嵌った能の様式が物語の展開を強制的にする。さらに暗殺の瞬間を描かないことで観客の感情的な参加を阻み、事後の武時の他律的な動きだけが描かれる。状況に強いられた行動の見事な描写だ。武時はこの場面で物の怪の語る欲望の因果律に完全に取り込まれ自由を喪失する。
 それまで恐怖と罪悪感に押しつぶされそうだった武時が、2度目の物の怪の予言で勝利を確信し自由奔放に行動し始める描写は痛快だが、これも実際は武時の破滅が決定的になったことを示していて、以降鳥の侵入などの自由で動的な描写の数々、武時が死に至るまでの躍動感溢れるアクションなど、観客が自由を感じる場面には実際のところ自由の余地がまったくない。

蜘蛛巣城 様式的な暗殺シーンに続いて現れるリアルで動的な場面
 様式的な暗殺シーンに続いて現れるリアルで動的な場面。
 二つの異なる方向性の運動を一つのカットで捉えて躍動する。
 この映画に物語から離れた描写はない。皆無だ。一見純粋に審美的な要素のように見える描写が全て物語上の機能を持っている。黒澤には珍しくユーモアによって観客の緊張を解きほぐすような場面も存在しない。この、全てが必然でできている映画は僅かにでも自由を許容するような不要なカットが存在することを許さなかったのだろう。
 物語の展開にまだ自由の余地のある場面では様式的な美しさが人々を拘束し、自由を喪失した後の描写は一転してリアルでダイナミックな魅力を放つ。それが映画を益々絶望で塗りつぶしていく。描写の面では『蜘蛛巣城』は感性否定の映画と言えるだろう。

 外在化した心理描写も特徴的で、それによって作品全体が悪夢のような主観世界の様相を呈している。
 主人公の欲望が開示される物の怪の場面を森と霧の場面が挟みこんでいて、主人公の武時とバンクォーにあたる三木がその複雑怪奇な黒い森と先の見えない真白な霧で、2度に渡って道に迷う描写がある。そこまでの軽快なテンポと異なり、観客に冗長さを感じさせる長い長い描写だ。これが実に効果的で、2人が道に迷って堂々巡りを繰り返す様は濃密な閉塞感を醸成して、この映画を象徴するシーンとなっている。不毛な繰り返しが彼らの意志と行為から意義を奪い、冗長さはやがて諦念を喚起する。通常、娯楽映画で忌避される冗長さを意図的に作り出し、諦念を醸成しようという着想は独創的だ。
 そして森や霧、物の怪は作品の舞台が外界から隔絶され超自然の理が働いている場所であることを示しつつ、複雑に曲がりくねった森は本心を隠す心中の迷いを、霧は自らの未来と本心を見通せない曖昧さと不安を表し、もののけはそれらに隠された心の奥底の欲望の象徴として、それぞれが外在化した心理描写として機能している。
 霧の中、城に攻め寄せてくる森も武時の主観ショットとして描かれることで、その幻想のような情景は、悪意と運命に囲続された彼の主観的世界の表現となっている。

蜘蛛巣城 味方から無数の矢を射掛けられる武時
 味方から無数の矢を射掛けられる武時。
 完全主義者と言われる黒澤だが、勿論実際には誰にも完全な映画を作ることなどできないだろう。しかし唯一『蜘蛛巣城』は完全と形容していい映画かもしれない。作品の内実が完全さを志向している。伝統的な日本の絵画のように空白を生み出す霧、能の所作と絵画的な構図、装飾を排した単純な美術など、純粋な美的要素とも思わせる諸要素が、あらゆる面から自由、偶然、可能性を否定し、決定論的世界を構築していく。可能性を排除した閉じた世界を表現しようとすることが必然的に美しく完成された世界へと向かわせたのだろう。そして勿論、この映画が偉大なのはその構想が実際に作品として結実しているからこそだ。その卓越した技巧、表現力には感嘆するほかない。

 『蜘蛛巣城』は内容、表現全ての面で美しく、完成された映画だ。

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