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『ツィゴイネルワイゼン』 関係性の映画

監督:鈴木清順 脚本:田中陽造 1980年

 この映画は現実と幻想、事実と虚構の境界が不分明で、それが特徴であり魅力でもある。一般的な映画では判明な出来事の連鎖としての物語があり、その起承転結に面白さがあるものだが、『ツィゴイネルワイゼン』はそういう映画ではない。曖昧模糊とした描写と物語が観客に解釈を求めて蠢く。それが意味作用のままに留まったり、様々な解釈に結びついたりするところに魅力がある。

『ツィゴイネルワイゼン』 開かれた書物や鏡に映る園を通り過ぎていく青地
  開かれた書物や鏡に映る園を通り過ぎていく青地
 こういった傾向の映画はいくつもあるが、その中でも成功した作品は映像や音声など描写が傑出している例が多い。タルコフスキーなどはその筆頭だろう。しかし『ツィゴイネルワイゼン』は少し違う。脚本段階で既に存在しただろうイメージや着想は非凡だが、描写そのものは実は平凡で淡白だ。

 冒頭の列車内の青地や旅芸人たち、海岸で暴れる中砂や巡査はテレビドラマのような大げさな演技で、それは全編変わることがない。溺死した女の股間から出てくる蟹が巨大化する特殊効果もチープで、それが例えば大林宣彦の映画のようにあからさまに現実に背を向けた虚構のリアリズムを形成するということもなく、映像は中途半端なB級映画的なリアリティの水準に留まり続ける。

 音はこの映画では非常に重要な要素のはずなのだが、音の演出も淡白だ。音声による表現はアフレコであることが観客にも意識されてしまうような平凡な出来で、旅芸人の歌と拍子も映像と音声に微妙なズレを感じさせる。屋根を転がる小石や青地とその妻が聞く誰が発したのかも分からない「駄目だよ」なども、内田百閒が文学表現によってもたらした優美な不気味さや不思議さには遠く及ばない。脚本は内田百閒の表現に匹敵する描写を求めているように見えるが、演出は内田百閒を読んだこともないかのような素振りで描写への執着が希薄だ。

『ツィゴイネルワイゼン』 引き戸から中に入り、引き戸を介さず外に出ている青地
  引き戸から中に入り、引き戸を介さず外に出ている青地
 映像、音声など描写が非常に淡白なのは残念だが、物語や場面設計そのものには間違いなく美しさが宿っていて、映画はシナリオを堅実に画や音にしていく。その中に面白い場面も沢山ある。

 窓の外の花びらや障子の向こうのオレンジの炎、死を暗示するような不可解な場面の数々と性や食べ物が醸し出す生臭い生、病室の妙子の台詞からそのまま同一カット内で始まる回想シーン等々。中でも青地が豊子の誕生祝いに中砂の家を訪れる場面は描写がいい。青地が小さな引き戸を開けて家の中に入るとなぜか壁がスライドし、帰る時には青地が壁を突き抜けたように引き戸を経由せずに外に立っている。不思議な描写が実に自然になされていて魅力的だ。


 シナリオはラストだけは意味を確定させてしまいそうなくらいに直接的な表現になっていてその点だけは残念だが、それ以外はとてもいい。シナリオの中に同型の関係性とその揺らぎ、主観と客観の混在など解釈の多様性を生み出す構造がすでに用意されている。

 まず目につくのは互いに補完し合う二組のカップル、中砂と青地、小稲と園の関係だろう。
 中砂は骨に執着する特異なキャラクターで、青地が語るように動物的で、妬ましい程に自由だ。何を生業にしているのかも分からず実在感が極めて希薄な存在でもある。一方で、青地は冒頭で自らの社会的地位によって巡査に話をつけるように徹頭徹尾、社会的な存在であり続ける。『ツィゴイネルワイゼン』は時折青地のナレーションが挿入される一人称映画でもあり、描写が主観と客観を区別しないことから作品世界の性質は曖昧としていて、その中では中砂が青地の反社会的な側面の象徴のようにも、その分身のようにも見えてくる。作品そのものが主観世界を描いていると解釈することもできる映画だが、その場合は二人は同一人物の二つの側面ということになるのだろう。
『ツィゴイネルワイゼン』 「もう後戻りはできませんわねえ」という園と小稲
  「もう後戻りはできませんわねえ」という園と
   それを反復する小稲
 園と小稲の場合はともに大谷直子が演じていてその身体の同一性からあからさまに相似形を形成する。さらに物語としても園が小稲にそっくりな人物として中砂の妻となり、その後園に代わって小稲が妻となるなど、その立場を入れ替えていく。そして「もう後戻りはできませんわねえ」などの言動を共有して不可解な同一性を獲得していく。

 また三角関係が頻出してその関係が変容していくのも特徴的だ。3人の盲目の旅芸人がその関係を様々な人物に様々に規定され、その本当の関係性が不明なまま別の関係に変容していき、最終的に相容れない二つの結末が語られる。その後、彼ら3人をそのままなぞったような子供たちが現れ、こちらもその意味づけは放置されて観客の解釈に委ねられる。

 さらに青地-中砂-小稲、青地-周子-妙子など、登場する主要人物全てが何らかの三角関係を形成し、それが複雑に葛藤し合い変容して比喩的な連関を生み出していく。それらの頻出する同型の関係はそれを構成する人物を取り換えつつ関係自身としての同一性を保持していく。更に青地と中砂、園と小稲の間で転移し、同化していくことでも人格は比重を減じていて、映画の描く主体はもはや人格であるよりも関係にずらされていく。実に個性的で独特の表現だ。

 使い捨てのビラのように不意に現れる不思議で美しいイメージ群、聞き取れないサラサーテの言葉、蒟蒻をちぎる音などもまた魅力的であるとともに観客の解釈を待ち望んでいる。

 これらすべての要素が現実と幻想、事実と虚構の不分明な世界を作り出し、それぞれが意味と解釈を求めて流動している。それらの効果を生み出す構造がこの映画のもっとも優れているところだろう。解釈は解釈者のものだがそれを生み出す構造は作品の属性だ。そこに参加できるなら『ツィゴイネルワイゼン』は演出面で多少の弱点はありつつもとても面白い個性的な映画となるはずだ。

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