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『時をかける少女(1983年)』 拙さが際立たせる手作りの美

監督:大林宣彦 出演:原田知世 1983年

 全体が破綻していても美しい1カットの魅力が勝る映画もあるかもしれない。『時をかける少女』はそういう映画だ。
 この映画を見始めると誰もがすぐに幾つかの欠点に気づくだろう。冒頭から役者の演技がひどく、台詞は棒読み、特殊効果も稚拙で、最初のシーンだけで観客にはこれがいかにひどい映画か分るはずだ。中学生が作ったのだろうかと真剣に疑う場面が頻出する。しかしそれらの場面でも作り手は明らかに真剣なようだ。

『時をかける少女』 原田知世 時間跳躍の主観的描写
 時間跳躍の主観的描写。説明的な描写を入れず、紅茶や母親の変化に
 よってその不可解な時間の推移をそのまま観客に体感させる。
 そういった欠点で映画の評価を決定せずに見続けると面白い部分も目に入ってくる。最初に気づくのは一見稚拙な特殊効果や合成で作られた画面の表現主義的な魅力だ。冒頭のいかにも作り物然とした星空と流れ星。そしてフレームを徐々に広げていきながらモノクロームからカラーへと変化する映像。オープニング・クレジット前に観客に「この映画はこういう画づくりですよ」と紹介してくれてもいるわけで、そのつもりで見るとその人工的な画はこの映画の枠組みとして受け入れることができるだろう。


 フェリーニの『そして船は行く』を見て、そこに映っている景色が偽物だと分っていても逆にその表現が美しく感じられたり、黒澤の『酔いどれ天使』の作為的で過剰ともいえるペンキまみれの決闘シーンが魅力的であったなら、この映画のいくつかのシーンにも不自然さ以上に魅力が強く感じられるはずだ。
 絵で描かれた遠景の家々が夕日に照らされているシーン、校庭の上を雨雲が倍速で流れていくシーン等にも作り物ならではの魅力を感じることができる。

『時をかける少女』 絵で描かれた背景と実写が合成された美しい夕景『時をかける少女』 急速に流れる暗雲が合成されたカット 主人公の不安と混乱を示す心理描写として機能している
 また、時折物語の流れを無視して唐突に挿入されるホラー映画のような演出。時計屋の店主が不気味に笑っている場面では、原田知世演じる和子の主観に擬したカットで唐突に恐怖が演出される。そうかと思うとすぐさまカメラがズーム・アウトして彼女を入れ込み、なぜかその恐怖を客観視させギャグにしてしまう。主観的な恐怖と客観的な滑稽さの振幅があまりに大きく観客の爆笑を誘う場面だ。また、和子が夜道で何者かに襲われたり、人形の首が動いたりと映画は脈絡なくサスペンスやホラーに転じつつ、その後何食わぬ顔で本来のストーリーに戻る。
 明らかに無理があるのだが、物語の流れから異質であることがこれらのシーンをより魅力的にしている。時計屋の場面などこの映画に不要で、かつ、場違いだ。しかし、だからこそその美しさはより強く感じられる。必然性がないからこそより怖く、より可笑しく、そしてより美しい。それらのシーンは映画の完成度を犠牲にしつつも物語上のどんな役割も担わず、それ自体を表現していて魅力的だ。

『時をかける少女』 上は1回目の「18日」 下は2回目の「18日」 同一性と差異が対照し合う 主人公の少女が同じ1日を2度繰り返す場面など、まったく無駄な描写のようにも思えるが、その繰り返される全てのカットに微妙な魅力が生まれている。おそらく一見同一シーンのように見えるので、そこに小さな差異を見出した時に観客は異化効果のような魅力を発見するのだろう。それぞれの場面で人物とその位置関係、ポーズなどは同じで、人物の挙動やそのタイミング、カメラの位置や照明などが僅かに異なっていて、その同一性と差異の対照が映画の快感を生み出していく。

 和子が数分間の短い時間を跳躍する様が紅茶や母親の変化だけで表現される微妙さも、その不思議な時間経過を観客に主観的に体感させてくれる。

 これらのシーンは映画の持つ正に映画的な魅力にあふれている。現実とは異なるリアリティを持った人工的な表現、ストーリー上不要でそれまでの流れと全く情感の異なるカットの挿入、同一シーンの微妙に異なる繰り返し等々。この作品や『HOUSE』の時の大林宣彦はこういう映画ならではの快感をつかまえるのが実にうまい。映画全体として破綻しているからといってこれらの表現の魅力はさらに優っている。

 そして制作者は思いもよらなかったかもしれないが、この映画のあまりの稚拙さと生真面目さは『そして船は行く』が意図的に観客に舞台裏を明かしてしまうのと同じ効果を持っている。それは映画の作り手に対する共感だ。見るからに一生懸命に演技している様子の原田知世や画面の手作り感からか、稚拙さはいつの間にか愛らしさに転じてしまうのである。
 映画が物語を語り終えると間髪入れず気絶していたはずの原田知世が突然起き上がって歌を歌いだす。普通の映画なら作品そのものを破綻させる致命的な欠陥かもしれない。が、この映画には適切だ。映画が虚構であることを自ら暴露して、愛すべき人々が決して悲しんでなどいないことを示してくれているのだ。

『時をかける少女』エンディング 棒読み演技の4人 学芸会レベルの作品と言うこともできるかもしれないが、この映画は観客をそれを見守る友達や保護者のような気分にさせてしまうので、そういったことはもはや問題にならない。そして学芸会で演じた悲劇が終わり、原田知世をはじめとする出演者たちが楽しそうに歌っているのを見れば観客はそれだけで幸せだ。それに個々のシーンの魅力を映画の完成度を理由に切り捨てる必要もないだろう。


 映画とはかくあるべしという基準を作ってそこにあてはめて評価すれば、『時をかける少女』は間違いなく失敗作ということになるはずだが、この映画の場合はきっと基準の方が間違っているに違いない。

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コメント
フェリーニの『そして船は行く』なんて、懐かしい。仕事の忙しさに紛れて忘れていた。

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