FC2ブログ

記事一覧

HOME

『この空の花 長岡花火物語』ある意味で典型的な反戦映画

監督 大林宣彦 2012年

『この空の花』 教員の片山
  男性教員が「雨が痛いな」という場面が面白い。何のことか分らないが、それがいいのだろう。この映画でほとんど唯一作品の構造に回収されない自由な表現だ。他にも女性記者の年老いた母親が踊っている姿に過去の若いころの姿が重なる場面はとても綺麗なイメージだし、登場人物が唐突にカメラに向かって語りかけたり、テロップが表示されたり、時系列を無視したカットなど、様々な表現上の試みもある。

 しかし、残念なことに観客には全編にわたって一方的な視点しか与えられない。登場人物は何十人と出てくるが意味の上では他者の存在しない映画だ。
 男性教員は想像力が大切だと力説しながら自分自身は決して想像力を働かさない。彼は怒りを込めて「大人の中には戦争を必要だと考える馬鹿な奴もいるかもしれないが、子供たちは違う」と叫ぶ。作中には彼と同じ考えの人々しかいないので、想像力が大切だとするなら彼にとっての想像力を働かすべき未知なる他者とはその「馬鹿な奴」以外にない。それをこんな一方的な断罪をしていては観客にはその独善性の方がよほど戦争の種のように見えてしまう。彼が中学教員として子供たちにその憎悪を伝染させていくだろうことも容易に想像できるが作り手はそのことをどう思っているのだろうか?
 更に悪いことにこの映画は全体的に綺麗な日本語が使われているのにここだけ「~な奴」という下品な台詞で声を荒げて罵るような演出になっている。これでは意図に反した効果しか生み出さない。作り手は制作時よほど客観性を失っていたのだろう。
『この空の花』 片山と不思議な少女、花 このように仮想敵を想定しそれを主人公たちに憎悪させたのがこの映画の最大の失敗だろう。「馬鹿な奴」が彼らの想像通りの典型的な悪役としても登場せず、実は想像とかけ離れた実体を現し彼らが苦悩するといった展開もない。
 また花という少女も自分は知っていて相手は知らないのであるから知らしめるのは当然という態度だ。彼女には他者の心情に配慮する必要などない。正しいのだから。全編この調子だ。
 彼らにとっての他者は最後まで幼稚な空想上の産物であり続ける。

 これらのためにせっかくの一部の美しい描写も様々な表現上の試みも映画の内容に組み込まれてその魅力を相殺されてしまう。もし作品そのものがこれほど押しつけがましいものでなく、もっと自然に観客が共感できるようなものであったら、それぞれ先人の過去の体験を若い世代が知ることの尊さとして、伝え方の様々な示唆として、逆に映画をより魅力的にしただろうに。

 とても残念な出来だ。この映画は幼稚で一方的な主張に貫かれている。観客自身が感じ取ったり、考えたりする余地が全くなく、極めて非映画的。またこの映画は戦争という人類にとっての課題を仮想敵に対する憎しみに卑小化する試みでもある。そしておそらく作り手がそれらのことに気づいていない。

このエントリーをはてなブックマークに追加
関連記事
コメント

拍手とコメント、両方して下さる方はお手数ですが、コメントは下のコメント欄にご記入下さい。拍手ボタンを押した後に出てくる「拍手コメント」に書き込んでも通常ページには表示されない仕様になっているようです。                       ⋮

コメントの投稿
非公開コメント

年代別

ジャンル別

プロフィール

ぱこぺら

Author:ぱこぺら
批評なので基本的にネタバレです。できるだけ下記の方針で書きます

・作品外の周辺情報を考慮せず作品内の表現に基づいて評価する
・歴史的な読み、評価から離れて現在の視点から論じる

リンク

撮影監督の映画批評

無意識の感情移入など専門的な視点から語られる映画評。個性的。

 

映画中毒者の映画の歴史

創成期の映画史と当時の作品の解説。貴重な情報が多数。


このブログをリンクに追加する