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『麻雀放浪記』虚実の混淆が生む映画的魅力

監督 和田誠 1984年

 一見マニアックな題材が実に面白い映画になっている。
 様々な手法で再現された「戦後の日本」はリアリティを持ちつつ手作りの創作感にも溢れていて、虚実入り混じった魅力的な仮構世界を形成する。他方、その世界の中に描き出される博徒たちの特殊な社会とそこに生きる人々は一転して現実そのもののような実在感だ。その虚実皮膜の世界で展開される彼らの真剣な騙し合いがこの映画の核だ。現実的な状況、実在感を備えた人々がその全生活を賭けて行う虚実の駆け引きはスリリングなことこの上ない。
映画 麻雀放浪記 ミニチュアで作られた焼け跡の街
 創作感に溢れた焼け跡の街。遠くに電車が走り、空には鳥が飛ぶ
 写実と特撮を混交させた表現形式と内容に表れる真偽のせめぎ合いが呼応して映画的魅力に溢れた見事な映画となっている。

 映画はいきなり路上でのナイフによる恐喝という非日常的な出来事から始まるのだが、意外にも当事者二人が旧知の中であったことで、何事もなかったかのように二人連れ立って賭場に行ってしまう。主人公の「坊や哲」は恐喝に遭いながら、ただ、偶然出会った知人に驚き喜ぶだけだ。道端で唐突にナイフを突きつけられることも、見知った人物がそんな行為をしている事実も驚くには値しないらしい。特殊な環境を日常とする人々の映画なのだ。観客にとっては目新しく興味深い世界だ。

 登場人物たちは皆”人間のクズ”と形容していいだろう。主人公は旧制中学を出たばかりで働きもせず博打三昧だし、イカサマ師や泥棒、人買い、借金のカタに自分の女を売る博打打ち、その男に依存しきった女など、ロクでもない人間しか出てこない。なのにそんな彼らが実に魅力的なのだ。まあ、単純に我々観客が本来的に興味本位な野次馬根性を備えているということでもあるのだろう。しかし、我々が飽かず注視してしまうのは特異な彼らの思考や感情に本当らしさ…リアリティが備わっているからだ。そして特殊なはずの登場人物たちが垣間見せる普遍的な人間性に実感が伴っているからだ。

映画 麻雀放浪記 登場人物が歩く実物の焼け跡の街
 出目徳の遺体を届けた後、実物の焼け跡の街を行くドサ健たち
 彼らは常識的な社会からはみ出した存在だが、完全な無法者ではないことが徐々に分かってくる。外部から覗き見る観客からすると、無法者のような彼らなら賭けに負けても「イカサマだ」と叫んで支払いを踏み倒すこともできそうに見えるし、実際、登場人物がそうしようとする場面が描かれる。だが、興味深いことに彼らにはそれができないのだ。イカサマは平気で行うが、賭けに負ければ皆その結果には原則従い、一文無しになろうとも、全財産を渡し家を明け渡し、意外な程すんなり結果を受け入れる。彼らには彼らなりのルールがあり一種の社会を形成しているらしいことが分かる。裸電球に頭をぶつけるほど激昂して怒鳴ってみても結局、社会的に、そして心理的にルールを破れないのだ。彼らには倫理があると言う他ない。実に意外な事実だ。
 しかし、すぐに我々は自分が間違っていたことに気づかされる。その意外性は我々観客が外部の視点から彼らを”人間のクズ”として見下していたからこそ生まれたものだったのだ。ドサ健に言わせれば逆に「家付き飯付き」の保険付き人生を生きている我々こそ根源的な真実が見えていないのだ。「てめぇらにできるのは長生きだけだ。」「糞たれて我慢して生きてるだけだ」 たぶん、その通りだろう。彼にはそんな生き方は我慢ならないし、もっと大切なことがあるのだ。
 環境と個性によって反転する価値観が実にリアルだ。彼らの言動に垣間見える人物設定にはまるで実在する人であるかのような奥行きの深さが感じられる。

 彼らはイカサマを駆使して互いに金を巻き上げようとしていた間柄であったとしても、賭け麻雀の最中に相手が亡くなると遺体を自宅までわざわざ運んでやる。有り金全部盗んで身ぐるみ剥いだ上、更にその遺体を自宅前の汚い水溜りに転げ落とすという非常識なやり方で、だが。そして彼らなりに敬意を込めた別れの言葉も贈る。実に人間らしい人々ではないか。特殊であり普遍的でもある彼らの言動は実に興味深く、最後まで目が離せない。


映画 麻雀放浪記 勝鬨橋の前を坊や哲とママが歩くファンタスティックな場面
  勝鬨橋の前を坊や哲とママが歩くファンタスティックな場面
 この映画の表現は非常に魅力的だ。
 写実と特撮、リアリズムとロマンティシズムなど背反するかに見える諸要素でできた仮構の作品世界。あらゆる手段を駆使して再現する戦後の情景、当時の日本人の顔と佇まいを再現する役者や衣装、往時の流行歌を現実音として処理する音楽設計など、作り手が意図を込め工夫を凝らして創出した世界に表現としての魅力が溢れている。

 スクリーンに映る勝鬨橋の前で足踏みをして歩く演技をする真田広之と加賀まりこ、前景と明らかに質感の異なる満開の桜の映像をバックに対話する真田と高品格…。それらの場面は演技と書き割りでできたファンタジー映画の世界だ。
 一方で、彼らが真剣勝負をする賭け事の場面はリアルな現実そのものだ。観客の眼前で加賀まりこが「元禄積み」と呼ばれる積み込みを実践してみせ、高品格と真田広之は牌山に積み込みをし、意図した通りのサイコロの目を二人連続で出し、その仕込んだ配牌で実際に上がってみせる。カメラは、目の前で行われているイカサマに気づかない人物を入れ込んで、1カットでその全過程を曝け出す。俳優が本当にそれを行っているのだ! 実際の行動を実際にかかった時間で写し取る写実であり、その緊迫感と生々しい感情、事実だけが持つ本物のリアリティが絶大な効果を発揮している。

映画 麻雀放浪記 創意工夫によって作り出された戦後の日本
 様々な技巧によって作り出される仮構の「戦後日本」
 それら対照的な表現の混在は全編に及ぶ。ミニチュアで作られ怪獣映画のセットのようにも見える焼け跡の街と、登場人物たちが実際にそこを歩き、遠くには火を起こしているらしい父子の姿も見える本物の焼け跡の街。現実の勝鬨橋のたもととスクリーンプロセスで映し出される跳開した勝鬨橋の全景。本物と偽物が混じり合いつつ、映画の中ではしかし全てが本物だ。

 他にも、星の瞬く夜空と作り物の蛾、「カルピス」や「産婆」のリアルな看板、ボロボロの掘っ立て小屋とそこに降るいかにも人工的な雨。通り過ぎる音と橋脚に映る車窓の灯だけで表現される列車。リアルであったり、逆にその舞台裏が観客に見え透いていたり……。
 しかしこの映画ではそれが全く瑕疵になっていない。それどころかそこに魅力が宿っている。その虚実入り乱れた表現は騙し騙される内容と密かに隠喩的な関係を結び、モノクロ映像が多様な要素を美的に統一して一つの世界を作り上げてしまう。作り手の美意識とバランス感覚が素晴らしい。イカサマ師の見事な手際と言うべきだろうか。

 『麻雀放浪記』は本物に似せて作られた世界とそこに生きる賭博師たちの映画だ。形式、内容ともイカサマでできているとも言えるだろう。しかし元来、映画は作り物であり虚構であって、そこにこそ魅力があるものだ。歴史的にも観客をうまく騙す映画がよい映画と呼ばれてきた。ここでも当然その慣行に従ってこう言うべきだろう。
 『麻雀放浪記』はとてもよい映画だ、と。

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