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『秀子の車掌さん』「爽かなソーダ水みたいな作品」

監督:成瀬巳喜男 出演:高峰秀子 1941年

秀子の車掌さん 当時のアイドル映画と言っていいだろう。成瀬巳喜男は仕事を選ばない人だったらしい。ただ普通のアイドル映画とは違う。主演は17歳にしてすでに57本の出演作がある後の大女優、高峰秀子だ。現在から遡って見ると成瀬・高峰の初コンビとして却って注目してしまう。しかし映画はほとんど内容らしい内容もなく、高峰の魅力に依存するわけでもない。非常に淡白な作品だ。

 田舎の路線バスの車掌であるおこまさん──これが高峰秀子だ──が遠のいた客足を取り戻すために名所案内のガイドを取り入れようと奮闘するのだが、ラストでバス会社の社長が唐突にバスを売り払い会社を畳んでしまう。ストーリーはこれだけで、時間も1時間に満たない。充実した内容、ドラマチックな起承転結を求める人には向かない映画だろう。しかし、リアルに存在している素朴で牧歌的な作品世界やアンチ・ドラマティックな構成の魅力を味わえる人には軽やかで心地よい映画だ。

 1941年の甲州街道は非常に長閑で、バスは停留所でなくても待っている人がいれば乗せるし、乗客の連れてきた鶏が逃げ出すとバスを止めて皆で追いかける。車掌のおこまさんもバスの運行中に「家の側でちょっと止めてね」と言って実家に寄って破れた靴を下駄に履き替えてきて「お待たせしました」で済ませてしまう。乗客たちも勿論そんなことで怒ったりはしないのだ。社長は事故が起こると保険会社を騙そうとする悪い人なのだが、あまりに不器用でどうにも憎めないし、運転手に二人分の給料を渡して従業員同士で金の遣り取りをさせる。性善説によって作られている幸福な世界だ。時間はゆったりと流れ、愚かな人や欲深い人はいても悪意だけは存在しない。そして誰もがカキ氷にラムネをかけて食べる。

 また成瀬らしく、物語だけを見ると悲劇なのだが、出来上がった映画はそうではない。おこまさんの努力もあって名所案内の口上も準備万端、予期せぬバスの新調や花飾りといった喜ばしい展開から一転してバス会社そのものの消滅が描かれる。持ち上げておいて急転直下の悲劇だが、その割にあまり否定的な印象にならない。

 おこまは中盤で下宿先のおばさんからバス会社を辞めた方がいいと言われていて、おこま・運転手の園田ともに会社に対する姿勢は滅私奉公とは程遠い。彼らにとってのバス会社の価値の低さと自分の楽しみのために仕事をしている様子が描かれていることで、あらかじめラストの悲劇が中和されてしまっているのだ。おこまさんの努力も努力と言うほどのこともなく、たまたま出会った小説家が案内文を作ってくれるし、その文を日常生活の傍ら練習するといった程度のことでしかない。ロッキー・バルボアのような激しい努力の過程があればラストはさぞ盛り上がったことだろうが、この映画はそんな感動は積極的に拒否している。

 中盤の展開でわざわざ悲劇を中和して、描写のピークも物語のクライマックスからずらされる。プログラムピクチャーであろうと成瀬の資質が明確に刻印されている映画だ。アンチ・ドラマティックのドラマツルギーこそがこの映画の特徴であり、それによって作家を乗せた列車が轟音を響かせて走り去るのをパンで捉えた迫力ある描写、売却後に描かれるほろ苦い最後のバス運行の様子など、劇的ではあっても、より以上に自然で現実的な人生の一場面となっている。映画には終わりがあるが、おこまさんや園田たちにとってはこれらの出来事も人生の途上の一過程に過ぎない。高峰秀子の言う通り「小品乍ら爽やかなソーダ水みたいな作品」だ。

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